夜勤明けの帰り道【創作】
夜勤明けの空は、いつも濁ったような中途半端な色をしていた。
大学生、という肩書きは一応まだ残っている。けれど単位は足りていないし、就活らしい就活もしていない。気がつけば、コンビニの夜勤だけが生活の芯になっていた。
そのままでいいわけがない。けれど、そのままでいる言い訳も、もう見当たらなかった。
レジに立ち、棚を整え、揚げ物の油の匂いを身にまとって朝を迎える。それを「将来に活かせる経験」だと思えたことは、正直ない。
酔客などのトラブル対応も少なく、深夜帯は時の流れがゆるやかだった。
僕は、裏で漫画を読んだり、スマホを触ったり。店に出ているときも、頭を使わない作業をしているときはたいてい、くだらない妄想や、強盗対処のシミュレーションなんかをして時間をつぶしていた。
そんな仕事でも、時間を拘束されて身体は疲れるし、実りある仕事と思えない分、精神も摩耗する。若くて体力があろうとも、夜勤明けには自分の姿はいつだってくたびれて見えただろう。
数日前のことだ。ゆっくり朝食をとってから、家路についた日。公園からボールが転がってきて、無理に笑って、投げ返してやったことがあったっけ。
子どもはきょとんとして、ボール遊びをしていたであろう別の子どもに「知ってる人?」と尋ねられた。そしたら、こう返していた。
「ううん。知らないおじさん。」
おじさんか。考えたこともなかったが。小さな子どもからすれば、そりゃそうだ。世間的にはそろそろ「不審で危険な人物」にされてしまいかねない。仕事終わりのメンタルで受け止めるには、少々重い言葉だった。
そんなことを思い返しながら、今日も退勤のタイムカードを切る。
制服を脱ぎ、私服になると、身体が少し自分のものに戻ってくる感じがある。家で寝るまでは持ちこたえてくれなければ、僕も困るというものだ。
だいたいは、コンビニを出て五分も経てば考えることも尽きて、信号をふたつ越える頃には、何も考えなくなる。目が開いているだけで、頭はもう眠っている。
「死んでる時間」。
自虐的に、大学の友人にそう話したこともあったっけ。
夜でも朝でもない。街だけが先に目を覚まして、こっちはまだ人間に戻りきれていない、そんな時間帯。深海から急に陸に上げられて、呼吸の仕方に戸惑うような感覚。車の走らない通りの空気はいつも綺麗すぎて、僕の心の澱と混ざりきらずに居心地を悪く感じさせた。
しかし、この日は少し違った。
店外に出てすぐ、店の前で小さな男の子がしゃがみこんで、ぐずっていた。父親らしい男性が、低い声で何度も「大丈夫、大丈夫」と言って、慣れない手つきで背中をさすってやっている。
少し立ち止まって見ていると、父親の方と目が合った。
「すみません……。車酔いで、子どもがここで吐いてしまって……」
「あ、大丈夫です。お子さん、よかったら店内の洗面台、使ってください。」
完全に、バイト口調だった。答えてから、あ、と思った。さっきすでに、僕のシフトは終わっている。
父親は「すみません」としきりに頭を下げ、抱っこして子どもを店内に運んだ。彼が子どもを洗面台で口をゆすがせている間、僕はトイレでバケツに水をため、表の吐しゃ物を適当に流しておいた。
「ご迷惑をおかけしてすみません。……子どもに飲ませるスポーツドリンクなんか、ありますか?」
父親に尋ねられ、答える。
「それなら、そのままだと胃にくるかもなんで、薄めて飲ませてあげるといいかもしれません。」
これも、答えてから思い出す。酔った時、母にそうしてもらって楽になった記憶があった。父親は、スポーツドリンクと白湯、飲めるゼリーなどをレジに持っていった。
* * *
「今、うちの奥さんが入院していて。はじめての長距離で子どもにも無理をさせちゃって……。でも、今は落ち着いたみたいです。お兄さんがしっかりした人で、本当に助かりました。」
申し訳なさそうに何度も頭を下げ、去っていく父親。僕は「いえ」と答えてうなずくだけで、それ以上は何も話さなかった。
もう一度。今度こそ店を出る。
外に出ると、空はさっきより少しだけ明るくなっていた。いつもなら、俯いたまま、ただ家に向かう道だ。
僕は、結婚もしていない。子どももいない。たぶん世間的には「しっかりしていない」部類の人間だと思う。
それでも、さっきの数分間は、ちゃんと誰かの朝の役に立っていた。それを誇らしいとも、意味があるとも、明確な言葉にはできない。ただ、今日はいつもより、足取りは軽かった。
夜勤明けの帰り道は、相変わらず眠くて静かで、現実とは距離がある。この先の人生だって、よくわからないままだ。
けど。
普段なら、もう考えることを手放している時間なのに。今日は、さっきの父親の声がまだ頭に残っていた。
いいなと思ったら応援しよう!
書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。