観覧車の約束【せりふ三題噺 / 観覧車靴下マシュマロ】
がたん、と鈍く響いたかと思うと、観覧車は動き出していた。鉄骨がきしむ音とともに、かごが空へ持ち上げられていく。
地面が離れていくにつれ、サニアの気持ちは幼い子どものころへと戻っていった。生まれ育った街は少しだけ、陽の光が届きにくい。それでも、水と緑は豊かで、人や雰囲気が慎ましやかなところだった。
運河の流れはいつも母のように穏やかで、丘の近くにそびえる石造りの城も、冷たい手触りを感じさせない。
けれど。
窓の傍で、ほとんど嘆息に近い吐息が漏れる。
安息日だというのに、この都市公園にはほとんど人がいなかった。娯楽関係の施設は軒並み、近いうちに閉まると聞いている。みんな、余白のない生活がじわじわ迫っていることを、うっすらと感じていた。
遠くに見える工場の煙が、雲に混じって消えていく。澄んだきれいな空も、ずっと同じままではいられない。
「人がいないわね。……この国も、変わりつつある。」
サニアはこぼした。彼女はよほど心を許せる相手の前でないと、不安を口にしない性質だった。顔は、窓に向けられたままだ。しかし彼女の隣には、長らく同じ時間を過ごした、男の姿があった。
「変わらないものもあるさ。」
サニアとともにいる男の名は、アレンといった。がっしりとした身体つきで、ボタンをきっちり留めたジャケットに、細いネクタイ。彼らしい服装だった。彼は、窓の外でなく、まっすぐサニアの方にその目を向けていた。
「変わらないって、それは、例えば?」
顔だけアレンに向き直り、サニアは尋ねた。両手は窓につけたままだ。彼は笑みを浮かべ、指で、ほぼ真下に位置する都市公園入口を指し示した。
「ほら、そこ。」
それは、噴水広場の池のある場所だった。
「あれ? 亀?」
サニアはくすっと笑った。学校でも耳にしたことがある。公園ができてから、ずっと同じ場所で生き続けているという亀の話。でもそれは、単なる噂話だ。
その間にも、ゆっくりと上昇する観覧車。
アレンとは、随分前から約束をしていた。彼から誘うのが常だったけれど、かけられたときの声の調子に、今までとは違う空気を、サニアは感じていた。
今日もずっと、彼は何かを言いそびれているようだった。視線はどこか落ち着かず、その瞳にはサニアと同じ不安や緊張が浮かんでいた。それでいて、実直さや慈愛にも溢れている。心に熱く灯るものがあり、未来に賭けている男性らしい眼差しでもあった。
「わあ、見て。学校の、屋上よりもずっと高い。」
サニアは、まるで気づかないふりをして、景色の方を見る。
「あの、俺。きみに聞いてもらいたいことがあって……。」
「……。」
サニアは外を見ていなかった。窓に写る、うつむいた自分の顔を見ていた。考えたことがないわけじゃない。男子学生の中には、国のために志願し、ここを離れる人たちがいるということは知っていた。
「なにも、言わなくていい。」
「…………。」
「ずるいね。」
「すまん。」
彼が言ったのは、何に対しての謝罪だったのだろう。サニアには、知る術がなかった。彼は自分を置いていかずに、ずっと隣にいて生きていくものだと思っていたのに。
大きく息を吐きだして、かごの中の天井に視線を移した。ガラス張りになっていて、そこからも空が見える。さっきまでの窓と違って、少し曇っているように感じた。
ふたりを乗せた観覧車のかごは、頂上を過ぎてゆっくりと下りはじめる。
サニアは黙ってかがみこみ、足元に手をやる。くしゃっとした靴下を避け、ローファーに仕込んだ、光るものを取り出した。
「……これ、お守り。」
「これは……?」
アレンは思い出す。そういえば、女子学生の間で流行っていると聞いた。運河の渡し舟に、硬貨がないと困るからと、靴にコインを仕込んでおくという話。
「この間発行されたばかりの、建国百年の記念硬貨よ。生まれ育った国のものだもの。きっとあなたを守ってくれるわ。」
「ありがとう。」
アレンは、大事そうに手のひらにその硬貨を包み込んだあと、落とさないように注意深く、懐にしまった。
「貸すだけよ。貴重なものなんだからね。帰ってきたら、きっと返して。」
「ああ……。約束するよ。」
サニアは、目の奥が熱くなっていた。でも、泣かない。踏ん張りどころで弱さを見せる女になるな。母に、小さいころからそう叩き込まれてきた。
アレンは頭を掻いて、革のショルダーバッグから巾着に入った包みを取り出した。
「……それは?」
「異国の傭兵が売っていた。遠い国の、『マシュマロ』という菓子らしい。」
「食べたことない……。ありがとう。」
ふわふわと、雲のようで神秘的なお菓子が顔を覗かせていた。まぶしいくらいに、サニアの胸がきらめく。取り出しておそるおそる口に含むと、しゅわっと口の中でとろけて、すぐになくなった。
「素敵。まるで──。」
天使の贈り物みたい。
そう、口にしかけた時だった。
がたんっ!!
突然の衝撃に、視線と身体がぐらつく。強い揺れ。爆風か──? だが、違った。強風。この春一番の突風が吹きつけ、観覧車のかごを大きく揺らしたのだ。サニアは、無意識にきゅっと目をつぶってしまう。
「……アレン?」
体勢を整えたあとのサニアの声は、か細いものだった。目を開けたとき、彼女の隣には、もはや誰もいなかった。かごの中は、静まり返っている。遠くで、彼女を呼ぶ声が聞こえた気がした。そしてそれは、ずっと昔のことのようにも思えた。
胸騒ぎを起こす間もなく、観覧車はさらにゆっくりと降下を続けている。見回しても、窓も天井も、しっかりと閉じられていた。サニアの心臓の鼓動は遅れて高鳴り、息が浅くなる。いくら耳を澄ませても、彼からの返事は返ってこない。
……ひとり、だった。
風が吹いてから、どれだけ時間が経ったのだろう。三度まばたきをして、窓に近づいて映した姿を見る。サニアの髪には、いつのまにか白いものが混じっていた。指先で触れてみて、それが自分の白髪だと気づく。
羽織っていたカーディガンからは、すっかり色が抜けている。足元を見ると、ほっそりとした足がおさまっているのは、ローファーではなく──くたびれた革のブーツだった。
思い出してきた。長い年月のことを、少しずつ。
彼が去ったあとも、この街が戦火に包まれることはなかった。けれどあのあと、この観覧車は止まった。長い間、動かないままだった。人々の心に平穏の灯が戻り始めた今、ようやく復旧して再稼働が決まったところなのだった。
……がたん。
もう一度、少しだけ揺れて、観覧車が下まで戻ってきた。まだ、口の中には甘い香りが残っている気がする。
サニアは、はっとしたように両手で体に触れた。皺の刻まれたその手は、なにかを探すように。
マシュマロの巾着は、どこにもなかった。
長いスカートのポケットで、ようやく手に触れたものを取り出す。そこには一枚の、古い硬貨があった。
建国百年の、記念硬貨だった。
※以下の企画に参加させていただきました。
※以下の企画にも参加させていただきました。(任意締切後投稿)
いいなと思ったら応援しよう!
書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。