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数字からこぼれた評価【創作】

評価シートの提出期限が、三日後に迫っていた。

課長になって五年目になるが、この時期の気の重さには、いまだに慣れない。机の上には、部署全員分の評価シートが並んでいる。数字、所見、次期目標。決められた枠に、決められた言葉と数値を入れていく作業だ。──その基準から外れたものは、最初からそこには含まれない。

迷いがない人もいる。

たとえば、少し前に入った高瀬麗香はどうだ。前職は全く異なる業種だったと聞いているが、業務理解は早く、成果も見えやすい。数字にすれば高評価になるし、本人もある程度それを狙って動いている節がある。評価シートは、彼女にとって答え合わせのようなものだ。

一方で、手が止まっているシートが一枚ある。

島本マリ。

社員としての勤続年数はそこそこ長いが、役職はない。担当業務は、誰にでも説明できるほど単純だ。……少なくとも、表から見れば。入力、確認、事務手続き。引き継ぎ、簡易的な手順書作成。欠勤は少なく、遅刻もない。ミスも、特別多いわけではない。

……だからこそ、書けない。

平均点を付ければ、それで済む話なのかもしれない。だが、その平均点が、どうにも嘘くさく感じられた。

彼女との面接はもう終わっている。評価シートは、上司である自分からの評価と、本人の自己評価を勘案して決定される。彼女の自己評価は、ごくごく平均……いや、平均よりもあえて低めにつけているようにも見える。

「私、ここができなかったんで、今期は……。」

へへ、と苦笑いしながら、そんなことを言っていた。だが、他からの評価はどうだろう。

マリが休みの日は、部署の空気が微妙にざわつく。

誰かが困ってから気づく。あの人に聞けば早かったな、という種類の困りごとだ。彼女がいれば、事前に小さく片づいていたはずの問題。ちょっとした電話対応、ファイリングされた資料の内容確認。

本当に、些細なことだ。

そんな、数値にできない成果は、サーベイ上では「なかったこと」になる。

新人教育。メンバー間のコミュニケーション。モチベーションコントロール。どれにも当てはまらない。

備考欄を、書いてみては消し。次のメンバーに行っては戻り。そんなことを、繰り返していた。

* * *

その日の午後、私はパート社員への意見聞き取りを行っていた。形式上のヒアリングで、記録には簡単な要約しか残らない。社員向けのサーベイほどは、重視されないものだ。必要かどうかも怪しい。

この評価制度自体がそもそも、弊社社長が過度に信頼を置く、コンサル業者の入れ知恵で作られたものだった。まあ、この会社も、社員に向けて「何かやっている感」を出すのはうまくなってきたように思う。

この日、最後に話を聞いたのは小野寺恭子だった。

彼女は一度社員から外れ、今はパートとして働いている。過去にミスがあり、それを隠したことで小さな損害が出た。処分は妥当だったと、私自身も思っている。

「何か今、困っていることはありますか。」

定型文のような質問に、恭子は首を振った。

「いえ……今は、大丈夫です。」

少し間があってから、彼女は付け足すように言った。

「……島本さんがいるので。」

理由を促すと、恭子は言葉を選びながら話した。

降格してから、居場所がなくなりかけたこと。自分のミスが怖くて、余計に手が止まっていたこと。そんなとき、島本マリが特別なことは何も言わず、当たり前のように声をかけてくれたこと。

「続けてこれたのは……あの人のおかげだと思っています。」

ふっと笑って、彼女はそう言った。私は、ペンを揺らしながら、その言葉をそのまま記録には残せなかった。

評価項目に当てはめようとしても、該当欄が見つからない。指導実績……。 あるいはチーム貢献? どれも違う気がした。

その日の夕方、私は副部長の席を訪ねた。

「評価で、少し相談がありまして。」

事情を説明すると、副部長は、ふうん、と短く相槌を打った。

「数値にしづらいタイプか。」
「はい。平均にすることはできます……。でも、それでいいのか迷っていて。」

副部長はしばらく考え、「最終判断は課長に任せる」と言った。体系的に組まれている以上、制度は変えられない。だが、解釈までは特に縛られていない。……私には、そう聞こえた。

私は、マリをもう一度呼んで話を聞くか迷っていた。しかし、呼んだとて、何を聞けばいいのかもわからないのだから、余計に迷う。私の机は、彼女たちの島の端にある。声をかけられれば、すぐ応じられる距離だ。

ふと、廊下を歩いていると、向こうで麗香、マリが話をしているのが見えた。

「いいわよ、マリ。ごみは私が捨てておくから。今日あんた、予定あるんでしょう。」
「うーん、でも。気になっちゃって……。」
「みんな甘えすぎなのよ、あんたに。細かい雑務、持ち回りでやるように私からみんなに言おうか。」
「え~いいよ。勝手にやってんだから。」

そんなやり取りだった。ふたりがこちらに気づく。

「課長。お疲れさまです。」

さっきとは違う、ぱりっとした声が重なる。

「……島本くん、ここのごみはいつも君が?」

「ええと」とマリが言いかけたところで麗香が口を挟んだ。

「そうなんです。私、最初聞いて、びっくりしてしまって。」

ふとそのとき、マリと目が合った。やはりサーベイの面談のときと同じ、困ったような笑顔をしていた。私は、右手を差し出した。

「……今日は、私が捨てに行こう。下の廃棄庫まで持っていけばいいんだろう。降りる用事があるから、ついでに。」
「でも。」

マリから、ごみの袋をさっと奪うと、私は階段の方を振り向いた。格好つけたかったわけじゃない。違う景色を、ちょっと見てみようと思っただけだ。

私は、彼女らから少し離れたところで、ふと足を止める。そして、振り向いた。

「……すまん。廃棄庫の鍵は、どこで借りるんだったかな。」

* * *

私は席に戻り、島本マリの評価シートを改めて見た。数字欄は、最低限埋めた。自由記述欄に、私は一文だけ書いた。

──島本マリは、数値化しにくい領域において、業務の質を静かに支えている。

それ以上は、書かなかった。

それが、どこまで評価として扱われるのかは、正直分からない。上まで読まれるのか、数字の陰に埋もれるのか、それすらも。

翌日、マリはいつも通り、後輩に声をかけていた。何かを教えているのか、助言しているのか、それはわからない。ただ、先回りしていた。そして恭子は業務の進め方をマリに相談し、麗香はマリをフォローしようと動いていた。

ここに座っていても、見えないことはまだいっぱいある。管理職は周りを見ることだ、なんて。昔先輩に言われた気もする。

私はようやく、部署の全員分の評価シートの束をおさめたファイルを閉じ、引き出しにしまった。



※以下は関連作品になります。


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財布野紐ゆるみ 書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。