藍の底から【風まかせ文芸部 / 新生活】
ここは地上から何千メートルあるのだろう。あるいは海底からの方が近いのか、それすらもわからない。泡どころか、生物の気配さえも遠くに感じる世界。そんな暗闇の煙の中を、葵は泳いでいた。
「ねえ。いる?」
たまらなくなって、さっきと同じ質問をまた投げかける。近くで、水を切る音が止まった。
「……ここにいるよ。」
応えた低い波長の主は、ルーツだ。葵とルーツは、ふたりで泳ぎながら、地上を目指していた。暗くて、姿は確認できない。意思の疎通には、互いに波長を通じ合わせる交信を使っている。
「私たちは、深いところから、上を目指しているのよね。」
「そうだよ。」
「ならどうして、以前よりも暗くなっているの。」
「言っていなかったか。このあたりには、水灯花がいないからだよ。」
──それじゃ、よくわかんないわよ。
「よくわかんなかったか。」
「……よくわかったわね。」
それからルーツは、葵に深海でのことをかみ砕いて説明した。水灯花は発光生物で、今いる位置よりもより深い場所に生息していること。もう少し浮上すれば、明るくなり始めるだろうということも。
「……本当かしら。」
正直、葵にとっては半信半疑だった。浮上すれば別の世界があるといっても。ここ数日は闇の中をさまよっているだけのようにしか思えない。新しく構える拠点に、あてがあるわけでもない。
でも。今は視認できない濃い藍色の世界に、ぽつぽつと微小な光が一面に広がる空間を。遠い夢で、見たような気もする。
「……ルーツは、見たことがあるの? 『地上』の光を。」
「僕は見たことないさ。生まれついての海洋適応種だから、深海しか知らない。でも──。」
「でも?」
「僕らのいた海底都市にも、陸上から移住してきた人間がいた。居住者の他に、研究者や、施設の管理者も。彼らの中には、地上を見たことのある者もいたと思う。」
海底都市は、葵とルーツが、はるか深くに捨ててきた居場所だ。少なくとも、葵はそう、ルーツから聞いていた。しかし、葵には思い出せない。どうして、去ることになったのか。どうして自分が、ルーツと一緒にいるのかも。
──いつか、彼は教えてくれるのだろうか。
ルーツの後姿を、音と波長で感じながら、葵は過去の記憶をたどる。しかしそれは、奏功したためしがない。
思い出そうとすればするほど、呼吸が苦しくなる。海洋適応種は本来、肺呼吸も鰓呼吸もできるはずだ。しかし、その両方の器官が一瞬機能を止めて、彼女を苦しめることがある。
「……辛いのか。少し、休もう。」
そんなとき、ルーツは決まって葵の身を案じた。
「……ごめんね、私のペースに合わせてもらって。」
悲しそうな気配だけを、近くに感じる。ルーツが「そんなことを言うな」と言っているかのようだ。しかし、その交信は葵の方には伝わってこない。
「……早くたどり着けるよう、少しずつ浮上のペースを上げていたが、やはり急がない方がいいな。今日はここまでにしよう。」
「じゃあ今日は、眠るまで、何かルーツの知っている面白い話をしてくれない? 景色が暗いから、明るい気持ちになれるものがいいわ。」
ルーツはいつも、難しい話ばかりする。葵の心境は、ルーツを困らせてやろうといういたずら心と、暗闇で滅入ってしまいそうな気分を吹き飛ばしたい気持ちのちょうど境目くらいにあった。
困ったような感情が、冷たい海水の流れに乗って伝わってきた。少し音が途切れたあと、穏やかな交信が始まった。
* * *
では、きみが忘れてしまった、海底都市での話でもしよう。
海底都市は、地上の人間が、海という未知なる世界へ可能性を求めて探求心を広げた末にできた、いわば海底の楽園だった。
巨大なガラスのドーム群が連結されていてね。それぞれ居住や研究、水質や酸素の調整、観測用など、用途によって分かれていた。
外殻部には、ドームに沿って水灯花や人工プランクトンの発光が無数に広がっていて、夜になるとその点灯がゆっくりと点滅に変わっていく。人の間ではしばしば「星空のよう」と例えられていた。
──素敵じゃない。星空、というのがよくわからないけれど。
ああ。そして、話そうと思っていたのはその外殻部で勤務していた、ひとりの海洋適応種の男についてだ。
彼の仕事は、海底都市外殻の清掃や補修だ。水灯花の死骸を取り除いたり、ケーブルや発光管の修理をしたり。まあ、言ってしまえば雑用ダイバーだな。
人間のいいように使われていた、と言えなくはないが、彼はそれなりにうまくやっていた。
そんなとき、男は観測用ドームの近くで、ひとりの人間を見かけた。白衣を着ていて、どうやら科学者のようだった。
前に話したかもしれないが、我々海洋適応種は、基本的には人間と接触してはいけない。
──聞いてないわ。どうして?
余計な感情を生まないようにじゃないかな。海洋適応種の中には、地上の文化の強要や、労働力の搾取などで、人間を憎む者も多いしね。
だから、その人間の科学者とその海洋適応種の男が出会ったのも想定外だったらしい。
科学者が観測窓から外殻の映像を解析していたのは、ドームの周りの水灯花が定期的に起こす、異常な点滅行動が理由だった。そのとき、外殻補修の作業に入っていた件の男と、ガラスを通して視線が合ってしまったそうなんだ。
そこから互いに興味を持ち、その男は科学者に向けて、響鳴信号を使ってメッセージを送るようになったんだ。そして、頭のいい科学者はそれを解読し、同じ信号を生成して返信することで、次第に意思の疎通ができるようになった。
さらに、好奇心旺盛な科学者は、男の伝える「海の外側」の世界に徐々に惹かれ、観測ドームでの勤務時間を増やすようになったらしい。
──面白いわね。種族を越えた、友情ってわけ。
……まあ、そんなところだろう。海底都市は人類第二の呼吸圏と呼ばれ長らく稼働を続けていたが、その人間の科学者にとっては、「閉じた世界」に感じられていたのかもな。
………………。
──その海洋適応種の男って、ルーツなの? それとも、あなたの親友?
……さあね。
──それと……どうして?
ん?
──どうして、私たちは海底都市を離れないといけなかったの?
……話を続けよう。その話も、このあとで出てくるから。
海底都市はね、人の手に負えないところまで進歩を続けてしまった。いや、あるいは海底都市そのものがその象徴だったのかもしれないが。
きっかけは……そうだな。酸素供給システムのトラブルだったと思う。詳しい内容は海洋適応種側には秘匿されていた。科学者を通して、その男だけは知ることができていたが。
とにかく、人間側の居住区をそのまま維持し続けるのは困難だということがわかったそうだ。中枢ドームがだめになれば、残るのは海洋適応種だけ。肺呼吸しかできない人間は、沈むしかない。
男は、迷った。外に安全な水があるのに、空気がない。なんとかして友人を──その科学者を救うことができないのか、と。
一方、研究者側ではひとつのプロジェクトが立ち上がっていた。
それが、「海洋適応種適応手術の開発」。これは、陸上人間を水中環境対応型へと改造する、というものだ。人と海洋適応種の交雑実験の延長だから、理論上は可能だった。
科学者は、それに志願した。つまり、適応手術の被験者として、海へ出られる道を選んだということだ。うまくいけば、他の人もそれに続くことができるかもしれない。
併用呼吸器官の形成に、耐圧皮膚の再構成。肉体面、精神面への負荷は、生半可なものではなかっただろう。
その手術が、うまくいったかどうかは──正直、わからないんだ。ほどなくして海底都市は、海底に沈んだからね。大勢の人間をドーム内に残したまま……。
最後は、あっけなかったよ。
* * *
葵はルーツの話を受け取りながら、少し前に見た夢のことを思い出していた。ぼやけた景色を、衣類をまとって二足で歩く自分の姿。足元にひれのない感触に慣れず、戸惑いながら。
ああ。歩くって、こういうことか。
忘れていただけのような、ずっと切望していたような、どちらともつかない感情。そんなものに包まれた夢だった。
けれど目覚めている今、彼女に募る不安は、先ほどよりもその速度を増していた。暗闇の中に、戻れる世界──海底都市──は、ルーツによると、もうないという。それでは私たちは、光を求めて、あるか知れない地上に向かう他、選択肢がなくなったということだ。
戻れる道がある中で希望へ向かうのか、退路を断たれた上で希望にすがらざるを得ないのかでは、状況がまるっきり異なる。
大事なことを、もう少し教えてくれてもいいのに。
「さっきの海洋適応種の男と、適応手術を受けた科学者も……どうなったか、わからないのね。」
ルーツはなにも、答えなかった。けれど、一瞬、言葉に詰まったような感触があった。わからないのか、それともあえて答えないのか、その反応だけでは葵には判別がつかなかった。闇で見えない彼の輪郭を、視線でなぞる。
葵の心境を察してか、ルーツは慌てたように話題を変えた。
「……あとは、そうだな。海洋適応種の思想というか、文化なんだけど。これは、前にも話したかな。」
葵はそのまま、続きを促した。
「ぜひ、聞かせて。」
「海洋適応種はね、死後、『海へ還る』ことを最上の形とする文化的な価値観があるんだ。ゆえに、海中で死ねたのなら、哀れみは求めない。一般の人間がどうかは知らないが、さっきの話の中に出てきた科学者は、非常にその考えに共感していたということだよ。」
その考えが、人にとってどうなのか。今の葵にとって、どうなのか。記憶のない葵には、決めることはできない。
「ねえ、ルーツ?」
葵は、思い立って言葉を送った。
「なんだい。」
「あなたがよければ、今日、もうちょっと地上へ近づきたいわ。」
不穏な心境が、伝わる。
「無理しない方がいいと思うが。」
「あなたの話で、少しだけ元気が出たわ。さあ。」
ルーツを待たず、少し上へ浮上する。再び、水の抵抗が身体に戻った。
けれど、さっきよりも滑るように身体が前に出る。あたりの水が少し軽くなっている感覚を、葵は覚えていた。
「あら?」
勘違いだと思っていた。先ほどよりもわずかに、しかし確実に、海の水が明るさを増している。ルーツの言葉が響いた。
「しめた、漸深層だ! このまま向かっていれば、いつか地上にたどり着けるぞ。」
光がある。自分の手足の輪郭が見える。その感覚に、葵とルーツは喜びを伝えあった。いや、伝えあうまでもない。うっすらとだが、互いの笑顔が確認できる。
葵は、ルーツに向かって両手を差し出していた。今と違う、新しい生活が始まる。葵の好奇心が、自然と彼女の胸を弾ませていた。
けれど、先ほどから胸を鳴らす音の中には、不穏な気配も混じっている。
光が差していれば、きっと影もある。協力者だけではなく、捕食者もいるかもしれないのだ。
視界が開ける分、姿を隠すことはできなくなる。その瞬間、小さな水泡の群れがそばを通り抜けた。とっさに身体が反応し、葵は身震いを起こす。
ルーツは、葵の両手をとって、強く握りしめた。葵の不安ごと包み込むように、がっしりと、力を込めて。その優しい瞳に、葵の心はいくばくかの落ち着きを取り戻した。
この先に待つ世界と、新しい居住空間。
星空のような、細かくて美しい光が、いつか自分たちを照らす日が来るのかもしれない。今のふたりの間に、厚いガラスの壁はなかった。
※以下の企画に参加させていただきました。
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