撫でるために【創作】
妻が夢に出てきた。彼女は、何か言おうとしていた。
口は動いているのに声が聞こえない。私は何度も聞き返すが、妻は困ったように笑うだけだった。
そこで目が覚めた。
薄暗い寝室の天井を見上げながら、しばらくの間、夢の続きを考えた。三年前に死んだ妻が、今さら私に何を伝えようとしたのだろう。
思い当たることは、ひとつしかなかった。
居間のこたつの脇で丸くなっている猫だった。妻が拾ってきて、一緒に飼い始めた猫である。
拾った手前、責任を感じていたのだろう。妻は最後までこいつのことを気にかけていた。
自分が入院してからも、猫のことばかり聞いた。私はそんなことより、自分の病気を治すのに専念しろと、何度も言葉をかけた。それでも、とにかく聞かずにはいられなかったらしい。
「ご飯ちゃんと食べてる?」
「寒がってない?」
そのたびに私は、大丈夫だと答えた。
実際、世話はしていた。餌をやり、水を替え、トイレを掃除する。まあ、それで十分だと思っていた。
猫も特に不満はなさそうだった。
たまに膝の上に乗ってくるし、撫でれば喉を鳴らす。冬になってこたつを出せば、真っ先に潜り込む。
過去に他の猫を飼ったことはなかったが、猫なんて、そんなものだろうと思っていた。
顔を洗って、鏡を見る。
あれから、三年か。
足元には、猫トイレの砂が掃除しきれずにぱらぱらとこぼれている。シートを敷いて対策しているものの、トイレのあとに、砂を引っ掻き回すのがこの猫の癖だった。
妻は都度、笑いながら掃除して、猫を甘やかしていた。
鏡には水はねが残り、うろこ状の水垢を残している。手元の洗面台も、同じ。彼女が生きていたころは、この場所は、ずっときれいなままだった。
* * *
だが最近、猫の少し様子がおかしかった。餌を食べ終わると頭を振る。くちゃくちゃと口を動かす。
はじめは気にしなかった。年を取ればそういうこともあるのだろうと思った。私だって若い頃とは違う。体力が落ちたと感じるし、腰や関節に痛みもある。
だが、猫のそれは何日も続いた。ある日、試しに顔を近づけてみると、口のあたりから妙な臭いがした。
気のせいかもしれない。私は鼻が利かない。匂いに敏感なのは、いつも妻の方だった。
食べる量も、少し減っているかもしれない。機械的に、同系統の餌を仕入れて補充していた。だから、ペースが以前と極端に変わっているかと言われると、自信がない。
病気……だろうか。
しかし猫だ。そのうち治るかもしれない。
そう思っていた。
思っていたが、ふと妻のことを思い出した。
妻の病気は、なかなかわからなかった。違和感がある程度で、生活に大きな支障はないのがよくなかった。
最初の病院では異常なしと言われ、ふたつ目でも、原因不明だった。
「大丈夫、気にしすぎよ。」
何度もそう言う妻を説き伏せ、三度目に大きな病院へ連れて行ったとき、ようやく病名がわかった。そのときにはもう、手遅れになりかけていた。
あのとき、もっと早く別の病院へ行っていたら。
そんなことを、何度考えたかわからない。病院に見舞いに行くたび、ハンドルを握る手に力は入ったし、当たり前の日常を映す周りの風景に嫌気がさした。
無論、妻と猫とは違う。
そう思う一方で、早く診てもらうに越したことはない気もした。普段は夢のことなど気にしないのに、あの妻の顔が、何かを言おうとしていたそぶりが何度も思い出された。
決定打になったのは、別のことだった。
その日、膝の上で猫がうとうとしていた。近くにはちょうど、猫用のブラシや爪切りの入った缶がある。たまには爪でも切ってやるかと思った。
妻が生きていた頃は彼女が定期的に切っていたが、私は苦手だった。嫌がるし、暴れるし、うまくできない。野生の猫は爪など切らないのだから、本当に切る必要があるのかと疑問に思っていたくらいだ。
それでも手を取って見ると、爪はずいぶん伸びていて、驚いた。猫が逃げないように、そっと前足の指を一本ずつ確認していた私は、ある場所で手を止めた。
右前足だった。
伸びた爪が丸く曲がり、その先が肉球に食い込んでいる。一瞬、何を見ているのかわからなかった。爪と肉球が、一体になっている。そんなふうに見えた。
思わず息を呑んだ。
妻なら、とっくに気づいていた。病室で聞いた声がよみがえる。
「あの子、爪切り嫌いだから気をつけてね。」
三年前の言葉だった。
思えばあれから、一度も切ってやっていなかった。
かわいがっていなかったわけではない。だが、見てはいなかったのだと思った。
* * *
翌日の朝イチで、近所の動物病院へ電話をかけた。キャリーケースは、押し入れの奥で埃をかぶっていた。この猫を拾ったとき、妻が病院に連れていくために買ったもの。その記憶だけは、かすかにあった。
病院は空いていた。待合室にも、他の患者はいない。受付を済ませてしばらくすると、名前を呼ばれた。
診察室には男性の獣医と、女性の看護師がいた。
キャリーから出された猫は固まっていた。逃げようとも暴れようともしない。暴れないようにするためなのだろう、看護師が体にネットを被せる。
私は自分がなにかされるわけでもないのに、妙に緊張していた。
難しい病気だったら。大きな病院へ行けと言われたら。そうなったとき、相談できる相手はもういない。
「では、まずお口から見てみましょう。」
獣医は穏やかに言った。私は覚悟したが、返ってきたのは意外な言葉だった。
「歯周病でしょうね。」
聞き慣れた病名。
「食べるとき痛そうにしますか?」
「いえ。食べたあとに頭を振ったり、口を動かしたり……。」
「左目、少し涙が出ていますね。たぶんそっち側の歯だと思います。」
猫の顔にライトを当て、口の中を確認する。
「やはりそうですね。」
迷いがなかった。
次に、爪を見る。看護師が器用にネットを動かし、前足だけを差し出した。
「これは、かなり伸びてますね。まず切りましょう。」
いたたまれなくなった。しかし獣医の口調は、気づけなかった私を批難するようなものではなかった。彼は、専用の爪切りを手に取る。
パチン。パチン。
パチン。
私が何年も放置していた爪が、あっさり短くなっていく。
後ろ足。反対側の前足。
まるで曲芸でも見ているようだった。そんなに思い切り、深くまで切ってもいいのかと、変なところに感心していた。
そして問題の、右前足に移る。
「これですね……。」
獣医は食い込んだ部分だけを慎重に切った。肉球に刺さっていた爪を、ぐっと抜く。
私は思わず顔をしかめた。痛そうだった。血も出ている。だが、猫は鳴かなかった。
「消毒しますね。しみるけど我慢してね。」
獣医は猫に話しかけた。看護師も、頭を撫でる。
「えらい子ね。」
猫はやはり鳴かなかった。怖くて声も出ない、ただそれだけだろう。そう思ったが、それでも、私も褒めてやりたくなった。
その処置が終わると、前足には包帯が巻かれ、抗生剤の注射が打たれた。爪の傷にも歯周病にも効くのだという。そんな、都合のいい治療があるのかと、ここでもまた感心した。
診察はあっけなく終わった。
だが、最後に獣医が言った。
「かなり、我慢していたと思いますよ。」
獣医はこのときも、責めるようには言わなかった。
だからこそ、余計にこたえた。私は黙ってうなずいた。猫のことを言っているのはわかっていた。それなのに、妻のことを言われた気がした。
病院を出ると、まだ昼前だった。長い一日になると思っていたが、実際は今日が診療日かどうかの確認の電話を入れてから、二時間程度しか経っていない。
空は、よく晴れていた。
「……すまんかったなあ。」
その言葉に続けて、受け取った診察券に書かれていた、猫の名前を呼んだ。相変わらず猫は声を出さず、ケージの中で少し身体を動かす程度だった。
* * *
家に帰ると、疲れていたのだろう、猫はすぐに眠った。少しは鳴き声を聞きたかった気もしたが、休ませておくことにした。
私はその横に座った。包帯の巻かれた前足が見える。
こんなになるまで、気づかなかった。気づこうとすらしなかったのかもしれない。
夢の中で妻が何を言おうとしていたのかは、結局わからない。
「ありがとう」だったのか。「違う」だったのか。「もっと早く病院へ連れて行って」だったのか。
それとも、そんな大げさなことではなく、久しぶりの挨拶をしてくれただけだったのかもしれない。
ただ、あのときの困ったような笑顔だけは、今になって少しわかる気がした。
眠っている猫の頭を撫でる。猫は目を閉じたまま、小さく喉を鳴らした。いつもより少しだけ、その音が大きく聞こえた。
私は猫を、もう一度撫でた。
膝に乗ってきたからそのついでに、ではなく。
撫でるために、撫でてやりたいと思った。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。