約束の松【創作】
祖父の松が切られることになった。
知らせを聞いたのは、お盆の前のころだった。
「仕方ないのよ。道路を広げるらしいわ。もう誰も住んでない土地だもの。」
母は、少し素っ気なく言った。
いつだったか、その松は昔から祖父が大事にしていたと聞いたことがあった。
けれど、僕には祖父との思い出と呼べるものがほとんどない。話をした記憶も、どこかへ連れて行ってもらった記憶も。
ただ、よく口笛を吹いていたことだけは覚えている。遠くまで響くような、低い音だった。
皺の深い横顔、白髪の頭、細い目。
祖父の松がなくなることを聞いて、なぜ心がざわついたのか、自分でもよくわからなかった。
* * *
祖父母の家を整理したのは、それから数日後。
「小遣いをやるから」と、腰の悪い祖母から頼まれた。
自転車で行ける距離だし、暇を持て余す中学生にはちょうどいい仕事だった。少しだけ自然の匂いのする通りを、夏の名残の風を切って向かう。
祖母の腰は、前よりもずいぶん曲がっていた。
麦茶を一杯もらってから、作業に取りかかる。
衣類の入ったケースの片付けと、いらないものを分別してごみ袋に入れていくのが主な仕事だ。
埃の積もった押入れの奥に手を伸ばすと、古い封筒が見つかった。もし大金が出てきたら、と一瞬妄想しかけたが、中から出てきたのは白黒の写真。若いころの祖父と、もう一人の男が並んで笑っている。
裏には「戦友と」とだけ書かれていた。
祖母にその写真を見せると、しばらく黙ってから言った。
「その人、戦地で亡くなったのよ。あの松はね、その人の眠る場所から持ってきた苗なの。」
驚いて顔を上げると、祖母は小さく笑った。
「夢でね、言われたんだって。『俺の代わりにこの松を育ててくれ』って。」
祖父が、そんな夢の話を信じ、律儀に約束を守ろうとする人だったことが、少し意外だった。
祖父と戦友に何があったかは、祖母も知らない。でも、きっと、絆と呼べるようなものがあったのだろう。
* * *
さらに数日後、僕は墓参りに行った。
これも、祖母の頼みだ。
墓の場所は、祖父母の家に行くほど遠くはなく、僕の家から歩いて行ける距離にある。
あの松を最後に見たのは、小学五年生のときだった。
弟とはしゃぎながら歩いた道。それでも、墓の場所はきちんと記憶していた。
そこでは、現場監督がちょうど測量をしていた。墓参りに訪れた僕を、関係者だと察したらしい。
「根が広がってましてね。墓の方まで行ってるみたいです。」
彼は申し訳なさそうに言い、地面に打たれた杭を指した。
「松枯れもしていないし、もったいないですけどね。よく手入れされていたんでしょう。」
境界線の杭は、松の根元をかすめるように打たれていた。
その根は確かに、祖父の墓のほうへ伸びている。
偶然だろうか、それとも……。
僕は松の木を見上げた。
太い幹は力強くうねり、葉の間からこぼれる光がきらきらと揺れていた。
威厳があって、どこか優しく感じられた。
工事の計画はもう止められないらしい。
母が以前役所に相談したが、決定は覆らなかったという。
どうにもならない。
祖父の戦友との約束は、ここまでということか。
時代の流れが、ふたりの記憶を上書きしてしまう。
何か、できることはあるのだろうか。
祖母に持たされたお酒をお墓に供えたあと、僕はもやもやした気持ちを抱えながら、帰路についた。
夢を見たのは、その夜だ。
祖父が松の下で、煙草を吸っている。
僕が声をかけようとすると、祖父はちらりとこちらを見て不敵に笑った。
──「ほうっておけ」とでも言うように。
* * *
翌朝は、雨だった。
工事は、少しだけ延期になったらしい。
僕は傘を差してこの日も墓まで行った。
小雨だが、あたりは薄暗かった。
濡れた松の根元にそっと手を置くと、白黒の写真が脳裏に浮かぶ。
土の下で、まだ、祖父と戦友が語り合っている。
雨音の合間に、かすかな笑い声が混じったような気がした。
そのとき、小さく風が吹き、松が鳴った。
その音は、祖父の口笛によく似ていた。
少し低くて、懐かしい音だった。
いいなと思ったら応援しよう!
書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。