言葉の手触り【創作】
締切が近いというのに、画面は白いままだった。
大学のサークル室。古い長机と、ずらっと並んだ折り畳み椅子。印刷機のインクと、埃の混じった空気の匂い。僕はノートパソコンの前で、指を止めたまま、カーソルの点滅を見つめていた。
「おっと。しょーへー、まだ進んでないの?」
声をかけてきたのは、サークル長の塙坂だった。両手に荷物を抱えたまま、こちらを見下ろしている。僕は両手を上げて、「うーん」と唸った。
「ま、書けるとこまで書いたら出せばいいから。」
笑いながら彼女はそう言った。
そういうわけにもいかないだろう……。まあ、彼女なりの冗談で気を紛らわせてくれているのかな、と好意的に受け取っておく。
「ハネちゃんはなかなか書けないときとか、ないの。」
ふと思って、口にした。
「あるある、しょっちゅうね。でも、締切前の、ひりつく感じ……。嫌いじゃないんだよね。」
けらけらとまた笑って、そう言った。彼女は活発で、よく笑う。どさっ、と彼女が隣の机に荷物をおろすと、こちらの机もそれにあわせて揺れる。
色気があるタイプではないけれど、イベントごとには誰よりも前向きで、他の人の小説を本にする作業も、楽しそうに引き受ける人だ。
この、小説を書くサークルでは、僕の他にはサークル長の塙坂、気ままにイラストを書く女子の榎原、たまにしか出てこない陰気な男子の篠前、この四人しかいない。
毎日来るのは僕と塙坂だけだ。中学のころから無遅刻無欠席の皆勤賞を続けている僕は、サークルにも律儀に毎日顔を出していた。
趣味の同好会みたいなものだけれど、年に数回、イベントに出て、冊子を作って売る。自分も高校の頃は、文章を書くのが得意だと思っていた。国語の成績はずっと良かったし、大学入試も、公募推薦で国語と英語だけで受験した。国語は、ほぼ満点だったと思う。
なのに今は、書けない。
アイデアは泉のごとく溢れる。ことあるごとに感じたものも、確かに胸の奥に溜まっている。それなのに、いざ文章にしようとすると、どこから手をつけていいのかわからない。
筆が進んでも、同じような構造の文が続く。情景や心情を説明しようとして、一文が必要以上に長くなる。書き直せば書き直すほど、言葉は重くなっていった。
塙坂はひとつ挟んだ先の椅子の背にもたれ、本を広げてつぶやいた。
「『完成形』にこだわらなくていいと思うよ。どうせ、あんたが速すぎて、言葉がついてきてないだけでしょ。」
その言い方は軽かったけれど、僕の中に、ひっかかるものを残した。
* * *
夜、自室で今日の塙坂の言葉を思い出していた。
速すぎる……。
自分の書こうとする気持ちに、言葉が追いつかないのなら。追いかけさせようとするのをやめればいいのだろうか。
そのときふいに浮かんだのは、過去の記憶だった。
高校の古典の授業。
小柄で白髪の、年配の女性教師。どこか、クリスティの小説に出てくるミス・マープルのような雰囲気の人だった。とにかく古典を愛していて、ことあるごとに宿題で古文の品詞分解をさせた。
助動詞、動詞、助詞、形容詞。文を細かく切り分けて、名前をつけていく。
当時は正直、意味がわからなかった。ただ面倒で、意味不明で、なぜこんな細かい作業をさせられるのかと思っていた。
授業の終わりに、その先生はよく言っていた。
「意味はあとでいいの。まずは、切りなさい。古文はね、書き残されたから、こうして今に戻ってきているのよ。」
その言葉の意味を、当時の自分は、正直よく理解していなかった。あの言葉はもしかして、『完成形』にこだわるな、と言っていたのかもしれない。
塙坂の言葉と、あの古典の先生の声が、頭の中で重なった。
今、手元のキーボードから一度手を離す。
感じたことは、たくさんある。
イベントに向かうときの空気。紙を束ねる指の感触。まだ新しいままの紙の匂い。誰にも手に取られない、ページの冷たさ。配りきれなかった冊子を箱に戻すときの、わずかな胸の痛み。誰かの作品が売れていくのを見たときの、言葉にしづらい感情……。
口から出せないなら、手から出せばいい。
ふと、そんな考えが浮かんだ。
新しいファイルを開く。そして、「文章」を書こうとするのをやめた。
代わりに、思いつくままに、単語や短いフレーズを打ち込んでいく。情景。心情。事実。説明。混ざっていてもいい。
ただ、切る。古典の品詞分解みたいに。
文章を、最初から「美しいもの」として扱わない。一度、ばらばらの部品にして、触ってみる。言葉に手触りがあるとしたら。たぶん今の、僕が感じているこの感覚だ。
不思議と、息がしやすくなった。
情景と心情と説明で一文ずつに区切ると、自然と窮屈さのない文章になる。
似た流れの文章が続くようなら、視点を変えて、心情と説明の順序を入れ替えてみる。そうするとまた、違った印象の言葉の並びが、僕を迎えてくれた。
うまくなった実感は、まだない。自分の文章が良くなったとも思えない。ただ、一文を紡ぎ出すことが、さっきより少しだけ、苦しくなかった。
画面の外では、夜が静かに深まっている。締切までは、まだ時間がある。
夜は長い。話を広げるには、十分な時間だと、僕は初めて思えた。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。