春巻きを、箱で【創作】
冷凍食品の棚の前で、彼はつと立ち止まった。
春巻きが、箱で積まれている。業務用で、家庭向きではない量。前に立てば、販促するための店員に声を掛けられそうで、すぐその場を離れた。去り際に横目で覗くと、値札には「まとめ買いでお得」と書かれていた。
大人買い、という言葉が頭に浮かんで、消えた。
子どもの頃、欲しかったものはたくさんあった。
駄菓子屋で並ぶ、カラフルなお菓子。あのかごに、詰めたいだけ詰められたら。好奇心をくすぐる、ガチャガチャの中身も。見えなければ見えないほど、魅力的だった。ケースの中のものを全部回して取ってしまえたら。そんなふうに思ったこともある。
でも、今は違う。
大人になって、箱でお菓子やおもちゃが欲しいと思うことはない。ガチャを全部回すまでもなく、欲しいものは、大抵は手に入る。手に入らない理由を、他人のせいにしなくても。
だから、欲しくなくなった。
売り場を少し進んだあと、彼は結局元の売り場に戻った。
──この春巻きは、いわば例外だ。
どうせ食べるから。節約になるから。そう言い聞かせて、そっと箱をかごに入れた。
本当は、自分でも理由はわかっていた。昔から、母の作る春巻きが好きだった。特別な料理じゃない。行事食でもない。外食で、中華料理屋で口にするものともまた少し違う、家で出た春巻き。
レジに並びながら、箱の写真を見る。箸で割られたやわらかそうな断面。湯気。写真の中の春巻きは、いつも正しい顔をしている。いや、正しいふりをしているだけかもしれない。
──そもそも春巻きって、言うほど「春」を巻いてるか?
つまらない疑問が頭をよぎる。
しかし彼は、母の揚げたての皮がぱりっと鳴るのを、彼はよく覚えていた。あの音が、春だったのかもしれない。
疑問というよりは、確認に近かったかもしれない。自分は何を期待しているんだろう。きっと思っている通りの具材で、思っている通りの味付けだ。でも、中身が見えていない。齧るまでは……そして味わうまでは、確かなことはわからない。
* * *
帰宅して、冷凍庫を開ける。
氷、保冷剤。そして、何年も前からいる冷凍食品が幅を利かせている。どうせ食べもしないのに、いつ捨てるのかの折を逃して、期限が思う存分切れたところで、ごみ箱に落とす。そしてなぜか、そんな行為に安堵を覚える。
がさがさと足掻いたところで、案の定、すき間はなかった。
大きくて、箱は入らない。でも、入れる。斜めに差し込んで、手のひらで押した。もう少しで、冷蔵庫から音が鳴る。機械からとはいえ、急かされるのは嫌だった。力を強めると、がた、と不満気な音を立てて、扉が閉まった。
昔から、そうやってきた。
その夜、春巻きを温める。揚げ直した方が、美味いに決まっていた。けれど、そんな気力もないに決まっていた。
電子レンジの中で、皿が静かに回り、そして止まる。
皮はべちゃついていた。油は下に落ちず、全部そこに残っている。
食べてみると、悪くはない。でも、思っていた味じゃない。もしかすると、ぱりっとした食感があれば、春を感じられたのかもしれない。
彼は二本目に手を伸ばさず、箸を置いた。
* * *
翌朝、駅へ向かう。荷物は少ない。冷凍庫の中身のほうが、よほど重かっただろう。
券売機で買ったのは、片道切符だった。予定は未定。だから、帰りの日を決められない。ただ本当は、戻ってこようがこまいが、同じだった。
置いてきたものを考えると、気がかりではあった。とはいえ決めなくていいことが、彼の荷物を転がす音を少し軽くさせていた。
ホームは混んでいた。電車が来て、人が動く。「二列に並んでお待ちください」なんて言葉は、愚かな正直者のための標識でしかない。一歩、踏み出すと、身体が人の壁に当たって、止まる。
押される。それでも、入れない。
こうなると、もうだめだ。券売機だって、後ろに人が並んでいるときに少しでももたつくと列を離れてしまう。後ろから伝わってくる不満の気配に、耐えられない。
このときも、彼は一歩、引いてしまった。
ドアが閉まり、電車が行く。
冷凍庫には、無理やり押し込めたのに。自分は、満員電車に入れなかった。覚悟が足りない、という言葉が浮かぶ。でも、それだけじゃない。
人の目も、周りの音も、何もかも。気にせず手を伸ばせるなら、そもそも自分はこんなところにはいない。
押しのけて、ひとり進みたい方向へ進めたら。知らない世界を好きなだけ想像して、見たいと思う景色も変わるのだろうか。そこでは春巻きは文字通り春を包んでいて。温かい味と香りが、心地よい音とともにあふれ出てくるのだろうか。
彼はただ、電光掲示板と腕時計とを交互に見て、ひとつ遅れた電車の時間を数えていた。
次を待ちながら、彼は凍ったままの春巻きを思い出す。箱のまま残してきた、食べられていない数。まだ一度しか開けていない。数だけは、きちんと未来を持っている。
戻れば、また食べるだろう。仮に賞味期限がちょっとくらい過ぎたっていい。忙しい夜に、レンジで温めて。べちゃついた皮に少しだけがっかりして、それでも「まあ、こんなものだ」と納得して。
そういう日々が、何事もなかった顔で続いていく。
母の春巻きに、もう一度近づこうとして、結局まったく近づけないまま。
戻らないから置いてきた。戻れないからじゃない。
春を感じられなかったことより、感じようとしたことが、少しだけ救いだった。大人買いをしたわけじゃない。ただ、春巻きを箱で買っただけだ。
次の電車が来る。今度は、人の流れに身を任せた。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。