ノイズの夜と境界線【創作】
朝、目が覚めたとき、まずスマホを手に取る。通知が小さな光となって目に飛び込み、世界が一瞬で頭の中に滑り込んできた。
ニュース、天気、戦争、友人の昼食、誰かの炎上。寝起きの、のどの渇きを水で癒すよりも前に、私は世界を摂取していた。
通勤電車の中では、スクロールする指先が止まらない。周りを見渡しても、みんなそうだ。
電車の揺れる音やざわめく車内の雑音に混じって、脳が情報を吸い上げる音が、微かに聞こえるような気がした。
車窓に映る自分の顔と、スクリーンの文字が重なって混ざる。脳の後ろで、呼吸のリズムと電車の揺れが不自然に共振しているように感じた。
昨日はよく寝られた。頭はすっきりしているはずだ。
思わず肩に力が入り、手に持つスマホを強く握る。隣の人の足が自分の膝に触れる感覚も、まるで夢の中の触覚のようだった。
* * *
昼休み、給湯室では男性社員たちが雑談をしている。
「人の脳ってさ、何TBまで入るんだろうな。」
「SSD換装できたらなあ。」
私は弁当を食べながら、その数字を想像してみた。
この職場に来たころは分からなかった、事務室の電子レンジを使う手順。
あたたまった弁当の、食欲をそそる匂い。
すべて、脳へ取り込まれる。
一日で摂取している情報の量。脳の片隅に溜まったノイズ。そして、もう二度と取り出されない断片たち...…。
──いや、記憶をたどって思い出せるということは、脳にはそのデータが配置されているということか。完全に消えてしまうデータがないのなら、いつかは脳のリソースは……?
そう考えると、背筋がひんやりとした。箸を握る指の感覚が少しだけ鈍い。誰かの笑い声も、カップ麺の湯気も、どこか遠く、現実感を失ってゆく。
情報が脳の中で膨れて押し寄せ、ゆるやかに私を締めつけていく。
* * *
夜。
小さめのノートを開いて、「今日感じたこと」を書こうとした。
ジャーナリングを始めたのは、職場でも日常でも、情報を機械だけに整理させている自分に気づき、なんとなく不安になってきたことがきっかけだった。
ペン先が止まる。
思ったこと。感じたこと……。
脳から出てくるまでに、少し時間がかかる。
頭の中には、ただの情報の羅列ばかり。
検索結果。生成AIによる出力。過去の先人の遺した知恵。
私の感情は、どこにもない。
私は今日、何かを摂取して、何も咀嚼ができないまま一日を終えるのか。
自身で生み出し、出力する結果は残せないのか。
「怖い。」
そう、ひとこと書いた。
ブルーライトを照らすスマホの画面から逃れるように、眼鏡を外し、サイドボードに置く。
目を閉じても、いやなノイズがまぶたの裏に残像となって残る。胸の奥で、不穏なものがざわめき、重みとなって身体中に浸透していく感触。
意識が、ゆっくり、遠くへと去ってゆく。
自分が取り込んでいた目の前の世界が、どろりと溶けていくように。現実と情報の世界の境界は、もはや、ぼやけてしまっていた。
世界の断片が夢の中で繋がろうとしているのか、ただの疲労からくる幻想だったのか。
まだ、わからない。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。