管理されなくなったもの【風まかせ文芸部 / 常温】
職場の廊下に貼られている、古いポスター。青い地球を両手で包み込むイラストと一緒に、太い文字でこう書かれている。
「地球を冷やそう」
立ち止まって、それを眺める。冷やす、という言葉に、妙な引っかかりを覚えた。
冷やすのか。冷ます、ではなく。
たとえば温水は、放っておけば冷める。熱を失って、世界の温度に戻るだけだ。冷やすというのは、意図的な行為だ。手間がかかるし、管理も必要になる。
どちらが正しいか、という話ではない。
ただ、地球を「冷やす」という言い方には、まだどこかに過剰な熱がある前提が残っている気がした。
私はポスターから目を離し、デスクに戻った。
* * *
帰りにスーパーへ寄る。特売の野菜と、値引きされた肉、いつも買う牛乳。冷蔵庫に入れるものと、入れなくてもいいものを、無意識に分ける。
──今夜は遅くなる。
昼過ぎに来た夫からのメッセージを思い出す。最近は、こういう連絡も事務的になった。愛情が冷えた、というほどの劇的な変化はない。
ただ、冷めただけだ。
結婚当初の熱は、時間と一緒に失われて、今は常温になった。
触っても熱くも冷たくもない、安全で、特別ではない温度。
私はフルタイムではない。そのことを理由に、家事はいつの間にかすべて私の担当になった。
「子どももいないし。」
彼は悪気なく言う。将来、親の介護が必要になるかもしれない、という話をしても、「そのとき考えよう」で終わる。冷やすほどの衝突もない。でも、温め直すほどの希望もない。
ただ、常温。
家に帰ると、靴を脱いで、買い物袋を台所に置く。冷蔵庫を開けると、中はいつもより空いていた。
夫は、冷蔵庫にあるものをすべて食べてしまう。保存のつもりで入れておいたものも、私があとで食べようと調理していたものも、「食べていいと思った」と言って、悪びれずに。
だから最近は、本当に取っておきたいものは、そこに入れない。冷蔵庫はいつしか、私が大事にしたいものや共有したいものではなく、いらなくなったものや処分したいものを入れる「箱」のような役割になっていた。
今日はひとりだ。自分の分には、簡単なものを選ぶ。冷凍ご飯と、インスタントのカップの豚汁。お湯を沸かすと、キッチンの周りがほのかに温かくなった。
鍋に沸かした豚汁のカップにお湯を注ぐ。ほんの少し湯が残った鍋を、コンロの上に戻した。
食べる前に、ついでに冷蔵庫に何か入れておくものを探すことにした。私が何も用意してないと、帰宅後に不機嫌になった旦那から、寝ている間に面倒くさい通知がスマホに飛んでくる。
私は上方のキッチン棚に手を伸ばした。ここには常温保存で食品がいくつかストックされている。定期的に中身に気を付けてやらないと──この間は、餅にカビが生えていた。
奥に眠っている、佃煮の袋を見つけて取り出した。牡蠣がたくさん使われた、少し贅沢なもの。本来、私の好物だ。
包装は、よくある佃煮のそれ。旅先の土産物屋に並んでいそうな顔をしている。いつ買ったのか、貰い物だったかもよく覚えていない。
賞味期限を確認する。まだ、大丈夫だろう。袋を開けて、中身を小さな皿に移す。乾かないようにラップをかけ、冷蔵庫の奥に置いた。
──これでよし。
* * *
自分の食事を終え、片付けをする。
洗い物をしながら、水の温度のことを考える。冷やされた水は、冷たい。でも、冷めた水は、ただそこにあるだけだ。私と夫の関係も、きっと後者だ。壊れてはいない。もう誰にも、管理されなくなっただけ。
ひとり分だから、片付けもすぐに終わる。洗い終えた食器が、かちゃり、と水切りかごで乾いた音を立てた。
スーパーのナイロン袋に、空になった佃煮の外装を放り込む。何気なく、その袋の文字が目に入る。
「瀬戸内産」
「秘伝のたれでじっくり炊き上げました」
「要冷蔵」
私は、少しだけ立ち止まる。そして、そのまま袋を縛って、ゴミ箱に捨てた。
冷蔵庫の音は、静かだった。
コンロの上の鍋の水は、常温に戻っている。
※以下の企画に参加させていただきました。
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