白い世界と優しい顔【創作】
雪の日。
新社会人の心愛は、寒さに耐えながら帰宅する。この日は、冷蔵庫に水と調味料だけしかない給料日前だった。
──マジでお金がない。 コンビニさえ行けない。
ふらふらしながら、 「……隣の人なら、分けてくれるかも」 と、人生で初めて「ご近所に食べ物をもらいに行く」決意をする。
隣人の青年・小浜とは、 エントランスで何度か話していて、 お互いに微妙に親しみはある関係。だとしても、やろうとしていることは不審者ぎりぎりだ。無論、一食抜いても死にはしない。しかし、明日一日の業務を迎えるまでに、今日の夜を越えられるだけの活力が必要だった。迷ったが、この危機には代えられない。
そして、ためらいがちなノックを二度。 小浜は驚きつつも、心愛の青い顔を見て、心配そうに「大丈夫ですか?」 と声をかけてくれた。
「すみません……。ほんの、少しだけでいいので、食べ物を分けてもらえませんか……?」
心愛は申し訳なく頭を下げる。彼の家には、クリームシチューがあったようだ。
小浜は笑って、「味見してないから、美味しいかわからないけど。ちょうどよかった」と、まだほんのりと温かいシチューを容器いっぱいによそって、持たせてくれた。
クリームシチューと、おまけに食パンを数枚受け取り、部屋に戻る心愛。
それぞれ、レンジとトースターで温める。
温かい湯気。はじめての「人の優しさにすがる」食事だった。そして、自分のうかつさを呪った。
──給料日前に、財布を失くすとは、なんてドジ……。
おいしい。身体がほどける。空腹は最高の調味料、とは誰が言ったのかは知らないが、その通りだと心愛は思った。
シチューの味は、とても素朴だった。家庭料理ではあるけれど、あの青年のイメージからは、少し違った印象を受ける。でも、そんな「気のせい」はすぐに薄れていった。
「ほんとに助かりました」と容器を返しにいったとき、小浜は照れくさそうに笑い、「気にしないでください」とだけ言った。
* * *
数日後の夜。
帰宅した心愛は、マンションのエントランスで違和感を覚えた。
妙に「誰かに見られている気配」がする。
振り返っても誰もいない。気のせいだと思って郵便受けを開けた。
息が止まった。
中には、自分の財布が入っていた。落としたまま諦めていた、あの財布だ。中身を確かめようと触れる前に、異様なその姿は目に飛び込んできた。
それはぼろぼろに裂かれ、ぐしゃぐしゃに濡れ、切り裂かれていた。まるで、恨みを何重にも刻み込むように。
蛍光灯の光で、その裂け目の奥に黒い布切れのようなものが見えた。目をこらすと、それは女物の長い髪。数十本、絡みついていた。
震えが、背骨の裏側から這い上がってくる。
誰が……? なんのために……?
理解する前に、背後で靴音がひとつ鳴った。暗がりから気配が立ち上る。
「……返したのよ。あなたが、『あの人のシチュー』なんか食べたから。」
低い、かすれた女の声。
振り向いた瞬間──。
そこには、頬がこけ、長いコートに身を包んだ女が立っていた。目には、狂気だけが宿されている。一瞬遅れて、女の手元のナイフが光った。
「返してよ。あれは、私が作ったの。あの人のために、あの人だけのために! あなたが勝手に、食べたんでしょう!?」
女の細い指がぎゅり、とナイフを握りしめる。凍えるような金属音が、心愛の耳のすぐ横で鳴った。郵便ボックスの一部が、形を変えてへこむ。
逃げるべきだと魂が叫んでいるのに、その伝達がすぐに足まで届かない。
「……返して。」
何とか自らを奮い立たせ、心愛はさっと身体をひねって距離をとった。
女の視線が、逃げ道をなぞるように動く。そしてまた、一歩踏み出した。靴音がさらにひとつ。
雪の日に、小浜の部屋の前で感じた優しいぬくもりは、もうどこにもない。
代わりにそこにあるのは──自分が踏み越えてしまった、隣人の「境界線」だった。
すんでのところで、ふたたびナイフの一閃をかわして廊下へ逃げる。無我夢中だった。このあと、いつまで走っていたか、記憶が定かではない。
しかし──同じ建物の住民の素早い通報と偶然の助けで、女はその場で取り押さえられた。
それを聞いて安心したのもつかの間、遅れて、心愛の背筋に再度冷たいものが走る。
この女は、どうやら小浜のストーカーだった。
では、あの男は──この女が作ったシチューと知った上で、食べずに自分によこしたのか……。
心愛の胸の奥から沸き上がったざわめきが、脳までも覆いつくす。
それなら、あの日の「優しさ」の奥に潜んでいたものは──。
* * *
事件後、心愛はマンションを引き払い、その街を離れて新しい生活を始めていた。最初の一年は、郵便受けを開ける行為ができなかったし、背後に人が立つ気配にも耐えられなかった。
エレベーターの箱の匂いや、ふいに視界に入る刃物。ちょっとしたことで、吐き気を覚えることもあった。
けれど二年目も終わるころ。新しい職場に、新しい人間関係。怯えずに歩ける道。少しずつ、平穏な世界が戻ってきた。前を向いて歩けている。そう実感できることも増えていた。
そして三年目、恋人ができた。話を聞き、寄り添ってくれて、安心をくれる人だった。怖いことがあって、それ以来、包丁が握れないことを伝えたときも、深追いせずに黙って受け入れてくれた。
「心愛ー。できたよー。」
ある日の夕食。彼が初めて手料理を振る舞ってくれた。付き合い始めてから、外食ばかりで家で料理をすることがなかったけれど……彼は、料理は得意と聞いていたので、楽しみだ。
鍋から漂う香りは、どこか懐かしい。
心愛は鍋のふたを開け、そこにある料理をじっと見つめる。あたりに、ほんのりと温かい湯気が立ちのぼった。同時に、あの日の温かさと恐怖の記憶が、胸の奥で微かに入り混じる。
いつもの、優しい彼氏の笑顔を見ているはずなのに。その優しさの奥にないはずの感情まで、勝手に脳に流れ込んでくる。
心愛の息は、どんどん短くなっていった。過去と今が、ひとつの味の中で静かに交差する。
──眼の奥が痛い。視界が狭くなる。
過去から這い寄ってくる、言い表せない感情。水底から浮かんでくるものを、両手で必死におさえつける感覚。おさえつけているのは自分だし、おさえつけられているのも自分だった。
スプーンがことりと音をたてる。あの女の靴音によく似ていた。
真っ白な世界が、ふたたび心愛の中を埋め尽くしていた。
いいなと思ったら応援しよう!
書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。