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五つ足りない、海と空【あなたの旅ショートストーリー】

九州への旅行計画は全く完璧ではなかった。

気づいたのは、特急列車が駅に着いたとき。
その車両は、外観も内装も、アンパンマン一色だった。

どうやら、私を九州方面ではなく高知県へ連れて行ってくれるらしい。
作者のやなせたかし氏の故郷にちなんだ列車だと、移動中に調べて初めて知った。

目的地とはおよそ方面が違うが、親に連れられ笑顔ではしゃぐ子供を横目に、こういう旅も悪くないなと考えていた。

そもそも、思い立ったのも今朝の朝方。

どこか観光地をめぐってゆっくりしたい。そう思うや否や、私は宿の予約もせず、必要なものだけ荷物をまとめて、最寄りの駅へ向かっていた。

日々の生活で精神が不安定になってしまい、職場には長期の休みを伝えている。

車内の雰囲気に合わせて、U-NEXTでアンパンマン映画の「シャボン玉のプルン」を再生する。クリームパンダちゃんがお歌でプルンちゃんを勇気づける場面に、心を打たれて泣いてしまった。

* * *

列車は定刻通りに目的地に着いた。
宿は近場で適当に予約し、ひとまず歩いて行けるところから見て回る。

観光地として知られる「はりまや橋」は、思っていたより小さい。
気づかずに何度か通り過ぎてしまい苦笑する。それは、街の片隅に置かれたオブジェのようにちょこんと鎮座していた。

「高知ということは、海が見られる!」と気を取り直し、私は桂浜へ向かうバスに乗った。窓の外がだんだん開けて、潮の香りが近づいてくる。

坂を上ると、坂本龍馬像が堂々たる姿で立っていた。
思ったより高い位置にあり、写真を撮りづらい。そんな私をよそに、彼は無言で日ノ本の空をまっすぐ見つめていた。

坂本龍馬記念館では、刀の展示もよかったけれど、何より目を引いたのはやはり窓の外の海の青さだ。きらきらと風にあわせてたなびく波が、私の心をとらえて離さなかった。

──海はどうして。

心の声が、ぽつりとこぼれる。

満ちては引いてを繰り返すだけの単調な営みを、文句も言わずに続けられるんだろう。

そして、どうして私は、そんな海に心を惹かれるんだろう。

浜辺に降りてくると、潮風が頬をくすぐった。
波の音が、やわらかくて優しい。

岬の方には、遠目に釣り人が見える。「釣れますか?」なんて、知らない人と交流できるような胆力は、私にはもちろんないけど。

その夜泊まったのは、高知市内のビジネスホテル。
近くのお店で夕食に、新鮮なカツオをいただいた。

窓の外からは、遠くの踏切の音が聞こえる。
この日は、薬を飲まなくても、ぐっすり眠れた。

* * *

次の日は、高知から香川県へ少し戻るかたちで移動した。

これもその日の思いつきで、金刀比羅宮にのぼったという母の話を思い出したからだ。最上部までの石段は長いから、行くなら若いうちのほうがいいかも、と母は言っていた。

金刀比羅宮の段数は奥社まで1368段だという。
石段へ向かう表参道では、土産物屋やうどん屋が軒を連ね、旅情あふれる風景にわくわくした。

しかし石段の途中には、杖を手にして、息を整える観光客たち。
私も石段をのぼるうち、だんだんと無心になっていく。

後ろから「若い子はやっぱり元気ね」と、私に向けたとおぼしき老婦人の声がする。そんなに若くもないんですけどね、と心の中で答えておいた。

汗が流れても、そのつど風が拭い去る。
一番上まで登ると、讃岐平野が見渡せる、雄大な空が私を出迎えてくれた。

遠くには、瀬戸内海が光っている。
昨日の海が、四国山地をこえて追いかけてきてくれたみたい。

──ちょっと休憩。

奥社までの途中にあったベンチに腰を下ろし、何もせず、しばらくただ風を感じていた。さわさわとそよぐ音が心地よい。

あれをしなきゃ、これもしなきゃと焦りながら、何も進められない。
……そんな自分に、少し嫌気がさしていたけど。

何もしないこの贅沢な時間は、私が心から必要としていたものだったのかもしれない。

黄金のべっこう飴をおみやげに買い、下山してからうどん屋に入る。
やさしい出汁の香りにほっと息をついた。

「ご旅行ですか?」

尋ねてくださったのは女性の店員さんだ。
私は、人との久々の会話にうろたえながらも答える。

「えっと、九州に行こうと思ってたんです。……でも、電車を間違えて四国に来ちゃいました。」

店員さんは、「九州と思って四国じゃ、五つ足りませんね」と言って笑った。その軽い冗談が、胸の奥までしみ込んでくる。

ちょっとしたミスも、誰かが一緒に笑ってくれると、救われる思いがした。

* * *

帰りの列車内では、もちろんくたくたで足が痛かった。
けれど、列車は優しく揺れており、私の心は軽い。

間違えたけど、間違いじゃなかった。
そんな風に思える旅。

九州は、また今度。

──「また」があるから、私は次の一歩を踏み出せる。
心地よい疲れの中。私はゆっくりと目を閉じた。

窓の外では、高知と香川をつなぐ青い空が、ここでもまだずっと続いていた。


※以下の企画に参加させていただきました。


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財布野紐ゆるみ 書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。