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湯気の向こうの、その人へ【せりふ三題噺 / 白い息ネクタイ約束】

中学二年生の冬休みがはじまるころ、私は、町の小さな銭湯「こころの湯」で番台をすることになった。

この銭湯を普段切り盛りしている祖母が入院する、この冬の一ヶ月の間だけ。

終業式から帰ってきて、私は制服のまま、ネクタイを外して番台に座る。幼いころから、ばあちゃんの経営するこの銭湯には何度も通っていたけれど、ここに座るのは初めてだった。意外と高くて、景色が新しい。

「冬場は、足が冷たいんだよ」とばあちゃんが言っていたのもよくわかる。私は、靴下を何重にも履いて、しもやけにならないように足を保護した。

* * *

最初は、お客さんに声をかけられるたびにどきりとした。

「うーっす。」
「あ、いらっしゃいませ……」
「……あ、どうも。そうか、今日からばあさんじゃないんだ?」
「あっはい、孫の、のの香です。よろしくお願いします。」
「聞いてるよ。孫をよろしくって、ばあさんに言われてる。」

常連の、おじいさんらしい。

私に「店をよろしく」って言うんじゃなくて、お客さんに「孫をよろしく」と言ってあるところが、ばあちゃんらしい。私は少し気持ちが軽くなっていた。

「まあ、偉いわねえ。のの香ちゃん。」
「おばあちゃんの体調は、大丈夫かい?」
「わかんないことがあったら、俺らに聞いてくれな。」

知ってる顔も当然いるが、初めて見る人もその多くが私を知っていて、気にかけてくれた。番台を任されることをはじめ不安がった私に対して、ばあちゃんがかけてくれた言葉を思い出す。

──のの香、「こころの湯」のお客さんは、みんな家族みたいなもんだから。なんも心配せんでええ。

……うん、確かに。その通りかも。

常連のじいちゃんもばあちゃんも、最初はほんの少し戸惑っていたが、すぐに慣れた様子で、私にもあたたかく接してくれた。

午後の湯気が立ち込める番台から、浴室を眺めると、湯気の向こうで顔をほころばせる人々が見えた。

シャンプーと石鹸の匂いや、湯船の「ぽちゃん」という湯音がやさしく届いてくる。こころの湯も、なんだか私も迎え入れてくれているようだった。

* * *

数日後のある日、閉店間際に、見慣れない女性がそっと番台に近づいた。ひと足先にモップで脱衣所を掃除していた私は、急いで番台の方まで戻る。

女の人は、肩の後ろまである髪を揺らしながら、申し訳なさそうに声をかけた。

「えっと……私、タトゥーがあるんですけど……入れますか……?」

私は言葉を返せずに固まった。ちらっと後ろの張り紙を見る。長い間張られていて汚れたその紙には、次の文字があった。

『刺青、タトゥーを入れられている方の入浴はご遠慮ください』

普段、うちではお断りしていると思う。中には怖がるお客さんがいるからって。

もし、ルールや約束ごとに厳格な母が対応したなら、きっと断っただろう。でも……この席を私に任せてくれている、ばあちゃんだったら、どうするだろう。

ばあちゃんは、人を見た目で判断するのではなく、「目を見て話して信用できるか」で判断する人だった。

その人の目を、じっくり見た。何かにおびえていて、疲れ切っているようだった。悪い人には見えない。救いを求めているように感じる。

私は、手をさしのべて、助けてあげていいんじゃないかと思った。

「もうすぐ、閉店なんです。閉店後なら……だれもいないから、入ってもいいですよ。」

私は、自然と声をかけていた。

女性はほっとした表情で、浴室へ向かった。

* * *

私はいつものように大きな桶を抱えて、洗い場の端にそっと並べていく。ばあちゃんに習った開店時の手順は、もう体が覚えてしまった。

釜場のことはお父さんが様子を見に来てくれていたし、何か困ったことがあれば、すぐにお母さんに電話するよう言われていた。具合の悪い人が出たときに、びっくりして、私は一度だけ電話をかけた。「湯あたり」って言葉、一生忘れないと思う。

お客さんに助けられながらも、私は少しずつ作業に慣れてきた。

例の女の人は、あれから二週間ほど続けて、閉店後にこっそりやって来た。

長い髪を頭上にまとめ、湯気の中で肩を落とす女性。その間、私は番台に座って静かに過ごすことにしていた。

あの人が入っているとき。浴室の前で私が音を立てると、彼女は湯気の向こうで、時々びくっと後ろを振り返る癖があったから。

毎日、私とその人は、ほんの少しのとりとめのない会話を交わした。

──家のお風呂、いま使えなくて……こんな時間まで、ひとり?

──冬休みが終わるまで、おばあちゃんのお手伝いなんです。


──大きな湯舟にゆっくり浸かるの、すごく久しぶりな気がする。

──お姉さん、長い髪きれいですね。私も伸ばそうかな。


──のの香ちゃん。今日のお湯、少し熱かったね。

──だって! 今日とっても寒かったでしょ? 

そんな他愛ない話を重ねるうちに、閉店後の湯気の中で交わす言葉は、少しずつあたたかさを帯びていった。湯気の向こうでお姉さんがふっと肩の力を抜いたように見えて、私は「少し、楽になれたのかな」と思った。

私は、何があったのかは詳しく聞かなかった。けれど、彼女が髪をまとめたときに鎖骨の下から自然にのぞくタトゥーは、なんだかいつも、悲しい色をしているように見えていた。

番台の席で私は、学校の宿題をそこに広げながら、ふとばあちゃんの言葉を思い出す。

閉店後の湯気の中で、あの人が少し笑うと、私も自然と笑みがこぼれた。

* * *

「今日まで、ありがとう。もう、明日からはお湯を借りないで良さそうだから。またあらためて、お礼させて。」

お姉さんは、最後の日。白い息とともにそう言って、にこっと笑った。

私は、「もうこの人には来てもらえないんだ……」と思うと、少し胸が苦しくなった。

ばあちゃんが、大事にしてきた、こころの湯のお客さん。自分はこれまで、ばあちゃんが接してきた常連さんに見守られている立場だった。でも、私もはじめて、自分から誰かを「守りたい」と思った。

夜の空気の向こうに、後ろ姿と揺れる髪を見つめながら、私はある決心をしていた。

* * *

冬休みが終わるころ。ばあちゃんが戻ってくる少し前。今日は学校の宿題の代わりに、番台に紙を広げて書き物をした。ペン先を走らせる指先が、窓の隙間から入りこんだ冬の匂いに触れて、少し震える。

そして、ばあちゃんは戻ってきた。

「のの香、ありがとうね。何も、問題はなかったかい。」

明日は、私が番台に座る最後の日。私は、どうしてもばあちゃんに話しておきたいことがあった。

「ばあちゃん! 私、相談したいことがあって……。」

* * *

そして翌日、あの女性が再び銭湯に現れた。今度は、営業時間中だった。

「のの香ちゃん。確か、今日が最後の日よね。……この間のお礼に、お菓子、持ってきたの。よかったらおばあさんと──。」

「お姉さん!」

私はにこっと笑いながら声をかける。女性は、私の後ろにある張り紙が、新しくなっていることに気づき、目を丸くしていた。

「──お姉さんも、今度は営業時間中に、ぜひお越しください。」

女性は張り紙と私を見比べて、少し息を飲んだあと、静かにほほえむ。

「……あの日あなたに、思いきって声をかけてよかった。ここがなかったら、私……。」

彼女はほんの少し、目に涙を浮かべながら言った。

「……ええ。きっとまた、来ます。」

張り紙には、次のように書いておいた。

『事前に番台にご相談いただければ、刺青・タトゥーのある方も安心してご利用いただけます。お気軽に声をかけてください。 こころの湯』

ばあちゃんみたいに達筆じゃないけど、一生懸命、新しい紙に心を込めた。

話したときは、ばあちゃんも少し驚いていた。けれど、私の張り紙を見て、静かに微笑んで……うなずいてくれた。

「張り紙も古くなっとったからな。のの香がそう思うなら、それが一番だろ。」

だって、こころの湯のお客さんは、家族みたいなものだもん。ばあちゃんや私が、目をみて信じられたお客さんだったら。その人にタトゥーが入っていたって、常連さんもわかってくれる。

番台の窓越しに、少し高い目線から湯気の向こうを見ると、常連のじいちゃんたちがいつものように笑っていた。胸の奥に、小さな誇らしさが芽生える。ばあちゃんの哲学を、自分なりに守れた気がした。

銭湯の湯気は、相変わらず静かに立ち込めている。けれど、私の目の前の世界は、少しだけ広がったように映った。



※以下の企画に参加させていただきました。


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財布野紐ゆるみ 書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。