接続情報【創作】
ある日、突然Wi-Fiがつながらなくなった。
「え、なんで?自動接続にしてたはず…」
業務委託の仕事の納品期日が間近に迫っていた。Wi-fi接続をした上でVPNをつなぎ、リモートサーバ上でやらなければならない作業がまだ少し残っている。
スマホのテザリングでやるには重い作業だ。せっかく自宅の回線を10Gにしたのに。月末の請求書もまだ送ってない。納品が遅れれば、来月の入金もずれる。
しかしスマホもPCもネットに沈黙。そして気づく。
──Wi-Fiのログインパスワード、覚えてない。
Wi-Fi再設定しようにも、接続情報を書いた紙が行方不明。
仕方なく、僕はスマホテザリングでPCをネットに繋ぎ、プロバイダサイトのログイン画面を開く。サービスサイトに入れば、問合せなりなんなり、なんらかの解決策は見つかるだろう。
「登録メールアドレスとパスワードを入力してください」
その画面で、止まる。
……覚えてない。
Yahooか? Gmailか? Outlookか?
何も思い出せない。
用途別にアドレスをたくさん作っていたのが仇になった。
なんだこの二段構え、三段構えの罠は。
いくつか思い当たるアドレスを打ち込む。無情にも浮かび上がる「そのメールアドレスはこのサービスに登録されていません」の文字列。
一縷の望みをかけて入力した最後のアドレス。エンターキーを叩く指に力が入る。数秒後、さきほどとは違うメッセージが表示された。
「入力のアドレスへ、パスワードリセットメールを送付しました」
みつけた。Yahooのアドレスだったらしい。
しかし、まだ問題はあった。アドレスが特定できても、そのメールアカウントにもログイン情報は必要だ。面倒がって復元情報を登録していなかった愚かな自分を呪う。結局次はそのメールアカウントの受信ボックスを開くために、また別のパスワードを探さなければならなくなった。
そこからは片付け、掃除をひたすらやった。やることは、目に入ったものを必要かどうか判断して、ごみ袋に入れていくという地味な作業だった。
机の奥、引き出し、雑誌の間、家じゅう紙の山をひっくり返す。
そしてついに見つけた──。
その紙は、雑誌の山の下敷きになっていた。
指先に触れた一枚の紙を引き抜く。折れ目だらけの白い紙。見覚えがあった。震える手で開く。
──あった。
メールアカウントの、パスワードメモだ。その紙を手に勝利を確信し、ふと裏返した瞬間。
そこには、見慣れた数字と文字列があった。
Wi-Fiネットワーク名
パスワード
……。
この家の賃貸契約時に、プロバイダ会社が置いていった契約時の関連書類。プロバイダサイトへの登録アドレスを忘れないために、ログイン情報をこの紙にメモ書きしていたようだ。
結局、Wi-Fiも、メールも、全部この紙一枚が鍵だった。
大切な紙の上に物を置くべきではない。
今日、胸に深く刻んだ。
──次からはちゃんと整理しよう。
やれやれと、ネットワーク名に合ったパスワードを入力する。
これでひと息つける。慌て出したのが、起き抜けすぐのこと。それから、意外と時間は経っていなかった。まだぎりぎり、午前中。朝食も食べずに、我ながらよく頑張った。
しかし、ネットワークのアイコンは未だ、未接続状態のままだった。
繋がらない。
時間がかかっているわけではない。Wi-Fiの、扇形のいつものマークが表示されない。
もう一度、ひと文字ひと文字、間違いなく打ち込む。
結果は同じだった。
おかしいなと、必要なくなった先ほどのメールアカウントの方へログインを試みる。
ずっと見られていない、受信ボックスのメール数は一万件を超えていた。先ほどのパスワードリセット通知以外にも、例のプロバイダサイトからの通知がいくつか来ていた。
その中に……。
「【再通知】お支払い情報未更新によるサービス停止の可能性」
という件名のものがあった。
重要そうなメール。長らく確認していない受信ボックス。
再通知? 支払情報……?
ここのWi-Fiサービスは、賃貸契約とセットになっている安価なオプションだった。登録カードで自動決済にしてあるはずで、口座にお金もあるから、支払いについては問題ないはずだけど……。
ここではっと気がつく。
先日、郵便ボックスに届いていた白い封筒。あれ、有効期限が更新されたクレカだ。今登録されているカードが期限切れで、支払いに使えなくなったんだ。
あの封筒、どこやったっけ。「あとで設定しよう」と思って、そのへんに置いたはずだけど……。
僕が「そのへん」を見回すと、そこには床だけが広がっていた。先ほど掃除して、自分で片づけたのを思い出す。
ぐう、とお腹がなった。
自然とズボンのポケット位置に手を伸ばすも、部屋着なのでそこに財布はない。一旦コンビニに買い物に行って落ち着くか……?
えーっと? 確か財布もどっかそのへんに……。
時刻は、お昼を少し回っていた。部屋は朝よりもずっときれいになり、必要なものだけが見事に消えていた。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。