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電車の音がする部屋【せりふ三題噺 / カイロ確定申告始発】

私が住んでいるのは、窓の外に線路が見えるアパートだった。部屋はひとり分としてもやや狭く、家具家電も最低限だった。

丸型低めのガラステーブル、簡易的なベッド、少ししか入らない収納棚。マンスリーで借りた部屋は備え付けのものばかりで、そこに私のカラーは加えていない。どうせあとで戻すのだから、配置もそのまま。変える悩みが介入する余地がない分、気楽だった。

家賃が安い。駅から近い。日中はほぼ部屋にいない生活なら、電車の通過音も気にならないと踏んだ。

実際、その判断は間違っていなかった。今や電車の音は、思っていたより生活に馴染んでいた。気になるのは、冬の冷え込みが厳しいことだ。カイロがないと背中と指先が凍えてしまう。しかし困る点の最大値がそこなら、この部屋を「悪くない」と断じたのも妥当だろう。

派遣の仕事は、短時間勤務だった。大学施設の教授秘書業務。特別な講義やイベントが重ならなければ、基本的には決まった時間に出勤し、決まった作業を終えて帰る日々の繰り返し。秘書室に複数構えるうちのひとりだから、心の負担も重くない。

「秘書検定」なんて現状実務では全く役に立っていないが、履歴書に箔がついたという点では、取っていてよかったのかもしれない。

路線の関係で、朝のラッシュの混み具合もそこそこ。私の生活は窓から見える景色と同じく、時間通りに走る電車と、時間に合わせて働く人たちの中に、きれいに溶け込むフリはできていたようだ。

夕方に帰宅すると食事を簡単に済ませる。コンロは一口なので、自炊の選択肢は削った。温め直した惣菜か、小さな冷凍庫に入れておいた備蓄品が常だ。食器を洗い終えるころには、窓の外を通る電車の音がほんの少し増える。

翻訳の仕事は、そのあとだ。前の職場のつてで受けた業務委託が、いつのまにか定期的な仕事になっていた。納期と文字数、仕様書の要求仕様を確認し、できるところまで進める。

私は経験で知っていた。作業日に縛られない、一括納品業務。このスタイルが、自分には性に合う。

窓の向こうから列車の群れが、振動と音を運ぶ。タタン、タタンとリズムよく。

電車の音が気になった日は、そこで切り上げ。通過音がリズムに乗る日は、そのまま続ける。完全な静寂より、一定の環境音がまざった方が集中できる。それも、経験で知っていた。

そうして、確定申告の季節になった。

派遣会社の雇用の収入とは別に、翻訳の仕事で得た分を申告しなければならない。請求書、領収書、経費にできるものの計算。久しぶりに数学の講義を受けているような気分になる。文系のつらいところだ。

日本の制度はわかりにくい。何を申告するかすら字面でわからないところに、日本語の脆弱性を感じる。シンプルに「Tax Return」って呼べばいいのに。そう、誰に聞かせるでもなくこぼした。

夜更けまでかかって、数字としての一年を、きれいに整理し終えた。

帳簿をしまい、パソコンの受信トレイの画面を閉じかけたとき、ここしばらく仕事用のメールアカウントのみしか開いていなかったことを思い出した。

私がメインで使っているアドレスは三つある。ひとつは業務委託の仕事用で、メールのやりとりが多く、常に確認が必要なもの。もうひとつは、派遣先の大学で割り振られている全学アカウントで、勤務時間中はこちらを使っている。

そして、個人用のアカウント。前に開いたのはいつだっただろう。親しい人との連絡は、スマートフォンのチャットで済ませている。個人用のメールボックスに、用事が届くことはほとんどない。

私はアカウントを切替え、久しぶりに開くことにした。ログインパスワードをメモした場所を思い出すのに、しばらくの時間を要する。

DMやSPAMに混じって、未読のままになっている連絡がいくつかあった。

かつての友人。別れた恋人。語学学校の知人。職業訓練校で隣席に座っていた人。

メールを開封しながら、マウスを無意味に何度もクリックしていた。ろくに見もせずに放っておいたことの、せめてもの償いだったのか。自分でも理由はわからない。

いつ届いたのか、受信日時の箇所へ視線を移すのをためらってしまう。届いてから、すぐには返せなかった言葉。今から返すには、少し重い気がする。

私の手元に今あるカイロのように、そこでは静かに熱が失われていた。揉み込んだところで、今さらきっと温度は戻らない。

生活は破綻していない。仕事も選び、時間も自分で組み立てている。ようやく、数字はきれいになったのに。そこには名前のない、割り切れない感情だけが残されていた。

「なんで今日なんだろうね。」

声に出すと、狭い部屋が思ったより広く感じられた。この部屋で、声を出す行為自体。前にしたのはいつだったろう。

いつしかカーテン越しに、空が白みはじめている。時計はまだ「今日」を指していない。遠くで金属音がして、線路の向こうで電車の気配がよぎった。

始発の時間が、もうすぐだと気づく。

夜は終わっている。でも、一日はまだ始まっていない。これから動き出す音だけが、いつもの景色に入り込んでくる。

メールを返すかどうかなんて、知らない。窓の外の電車を見ながら、私はただ、この時間を迎えている。

タタン、とひとつ。音がした。



※以下の企画に参加させていただきました。


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財布野紐ゆるみ 書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。