藤棚のあとで【せりふ三題噺 / アイスコーヒー葉桜昼寝】
「靖子さんですか。」
最初、誰だかわからなかった。たぶん、名前の呼び方が、記憶の中のものと違ったから。
「……はい。」
少し間があってから、「紗苗です」と名乗られた。そこでようやく、声と名前が結びついた。
「あ、どうも……。」
「こんにちは。」
お互いに、同じような言い回し。電話越しに、少しだけ笑う気配があった。
借りている本を返したい、と彼女は言った。お菓子のレシピ本だった。そんなものもあっただろうか、と一瞬思ってから、ああ、と曖昧に返す。
「送ってもいいんですけど……。」
「いや、あの。」
少しだけ食い気味に言われて、私は言葉を止めた。思うところがあった。
「もし、都合よければ……直接、お会いできれば。」
そのあとに続いた沈黙には、二十年分の重みがあったかもしれない。
* * *
学校の門は、思っていたより低く見えた。
あのときは、見上げるようにしていた気がする。紗苗と、ふたりで。今日はよじ登らなくても、正面から入れた。受付で名前を書いて、来校者用の札を首にかける。
「久しぶりだね。」
紗苗は先に来ていた。そう言ったあとで、少し困ったように笑う。
「……だね。」
私も同じように笑った。
会話の中で、しばらくはですます調のままだった。仕事のことや、住んでいる場所のこと。どこにでもあるような話を、ぎこちなく続けた。
「てか、靖子さ、敬語やめない。」
切り出したのは、紗苗だった。いつも、私が言いたくても言えないことを、先に言葉にしてくれるのは彼女の方だった。だから、会うことを私から持ちかけたとき、きっと驚いていたと思う。
「じゃ、紗苗の方こそ、やっこって呼んでよ。」
たしかに、と笑う紗苗。遠回りしながらも、少しずつ時間の糸はほどけていった。
校舎の壁は以前から塗り替えられていた。けれど、窓の配置や、廊下の長さはそのままだった。
「なくなるんだよね。」
私が言うと、紗苗はうなずいた。
「私は、やっこに聞いてはじめて知ったよ。来年度から。統合だってね。」
前にも聞いたような言葉だった。歩いていると、グラウンドの向こうに鉄骨の枠が見えた。
「あれ。」
思わず声に出る。
「あんなの、あったっけ。」
近づいてみると、それは藤棚だった。いや、藤棚だったもの、というべきかもしれない。上を覆っていたはずの枝はなく、細いツルが数本、名残のように絡んでいるだけだった。
「覚えてない?」
紗苗が言った。
「ここ、藤、すごかったよ。」
言われて、ようやく思い出す。春になると、紫色の花が垂れ下がって、下は少し暗くなるくらいで。
「……ああ。」
でも、私は当時、細かく見ていなかった。暗い所に、自分から入るのがいやで。植物の下だと、虫が落ちてくるような妄想もあって。
ただ、今はその面影もない。私は鉄骨に手を触れた。ひんやりしている。
ベンチがひとつ置かれていた。ふたりでそこに座る。紗苗は紙カップを差し出してきた。
「そこの自販で買った。」
受け取ると、コーヒーの氷はもう半分くらい溶けていた。
日差しが強く、私は鞄から日焼け止めを出した。キャップを外して、少し迷ってから、そのまま閉じる。当時からこの状態だったら、ここで気持ちよく昼寝でもできただろうか。
ふと、視界の向こうに、フェンスが見えた。奥にあるのは、プールだ。さっきの藤棚と同じで、そのかたちだけが残っている気がした。
「……ここだけの話だよ。」
紗苗が、私の視線の先にあわせて言った。昔と同じ言い方だった。
「……あのときさ。」
言葉を選ぶみたいに、少し間を置く。
「本気で、水、抜いてやろうと思ってた。」
私は笑った。
「やっぱり?」
「うん。鍵の場所も見てたし。」
「それ、やってたら退学とかじゃないの。」
「かもね。」
少しだけ、笑い声が重なる。風が吹いて、上のツルがかすかに揺れた。影は、ほとんど落ちていない。
「だって、楽しかった? 中学んとき。」
紗苗がこちらを向いて言う。瞳が少し、揺れていた。
「ま。一年のときは、かな。」
「でしょ? 二年から共学になってさ。」
わかるよ。
その気持ちが、今も私たちをつないでいる。私は今でも、誰かに聞かれれば「女子中に通っていた」って答えてる。でも……。
「でも、それも……。当たり前みたいになっちゃったよね。」
藤棚の骨組みが、視界の端で白く光る。紗苗は視線を逸らして、またプールのある方を向いた。
そう。
あれだけ、ふたりして声をあげて、反抗しても。共学になって、男子が入ってきてからも、学校生活は普通に続いていった。
いつのまにか「前からこうでしたよ」という空気に飲まれて、そこにいる自分が、少しだけ苦しかった。
アイスコーヒーの入ったカップはふやけて、両手で包むと水面がゆがんだ。
「やるなら今だよ。」
紗苗が言った。同じ調子だった。あの夜、プールサイドで言ったのと。私はカップのかたちを戻しながら、縁を指でなぞった。
「なにを?」
そう返すと、紗苗は肩をすくめた。
「知らない。」
しばらく、どちらも何も言わなかった。遠くで、運動部の声が聞こえる。昔とは違う種類の声が、混ざっている気がした。
ベンチの下で、サンダルを少しだけ脱ぐ。地面は乾いていて、思ったより温かかった。
「どうせさ。」
私が言う。
「そのうち、なくなるんだし。」
我ながら、うまくない言い方だと思った。でも紗苗は、少しだけうなずいた。
「ま、ね。」
短く答える。カップの中で、最後の氷のひとかけが、崩れて沈んでいった。見渡すと校庭の端では、葉桜が風に揺れて、光を細かく返している。
「……帰ろっか。」
どちらからともなく言った。
「うん。」
立ち上がる。サンダルに足を入れる。
振り返ると、藤棚の骨組みはそのままだった。何も変わらず、そこに残っている。受付で札を返して、門を出る。
門はさっきよりもさらに少し、低く見えた。
* * *
「あっ。」
紗苗が、出たところで足を止めた。
「どうしたの?」
「レシピ本。出がけに玄関に置いて、忘れてきた……。」
今日、返してくれると言っていた本だった。
「やっぱり、送ればよかった。……やっこ。もう、返さなくていい?」
私はそれを聞いて、笑って言った。
「だーめ。次に会うとき、必ず返して。」
レシピ本は、とっくの昔に失くしたと思っていたけど。もう正直、忘れかけていたものだったけど。こうしてまた、手に戻る機会が巡ってきた。
卒業した中学校は、もう少しで、なくなる。
それでも、残っているものが、少しだけあった。
※以下の企画に参加させていただきました。
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