十七人の集合写真【第五話 原点】
第五話 原点
国の北部へ向かう古いバスは、舗装の割れた道を揺れながら進んでいた。
がたがたという不規則な音と振動が、思考を左右に揺さぶる。
窓の外には乾いた丘陵が続き、そのあいだを低い石造りの家が点々と並んでいる。都市部よりも風の強さは増し、細かな砂がガラスを叩いた。
アルは膝の上に鞄を置き、その上から手を重ねていた。
日本との面談は終わった。受け入れの内諾も届いた。必要な書類はまだ山ほどあり、大使館とのやり取りも続いている。正式決定ではない。何ひとつ、終わってはいない。
それでも、輪郭だけは見えてきていた。あくまで、ぼんやりとしたものだったが。
行けるかもしれない……。
その実感は、鞄の中の書類が増えるたびに少しずつ重さを増していた。
面談のときから、思っていた。祖父に会っておこうと。祖父は都市部から離れたこの村で、たったひとりで暮らしている。今思えば、最後に会ったのは二年も前だった。
バスを降りると、乾いた土の匂いがした。都市部とはまた違う種類のものだった。
村は、昔より静かだ。景色はさして変わらないように見えたが、子どもの数は減っているのかもしれない。
祖父の家は、石壁の低い平屋だった。扉を叩くと、中からゆっくり足音がする。開いた扉の向こうに、祖父がいた。
「アル。」
声は昔より弱くなっていたが、その目だけは変わらなかった。自然とアルは祖父と抱き交わしていた。肩越しに、骨ばった背中の角が掌に当たった。
「大きくなったな。」
アルは笑った。
「もう二十六ですよ。」
* * *
祖父の家の内装は昔のままだった。古い絨毯に煤けた棚。窓辺には、小さな鉄瓶が置かれていた。
そして、幾何学的なタイル模様が刻まれた壁掛け時計。この家ではそれ以外の時計は見たことがなかった。
思い出が蘇る。過去にアルが礼拝の時間を正確に知らせる礼拝時計をプレゼントしようとしたとき、「時間は鳴って知らせるものじゃない」という理由で固辞されたのだった。
祖父が茶を淹れると、湯気が白く細く立ちのぼる。香辛料を少し加えた、華やかな香りがふっと届く。それはアルにとって、ずっと慣れ親しんだものだった。今ここで、できるだけ胸いっぱいに吸い込んでおきたかった。
アルは、日本からの書類を鞄から取り出して見せた。
「エルネアか。」
祖父は懐かしそうに言った。
「本当に行くのか。」
「まだ決まっていません。でも、たぶん。」
祖父はゆっくり頷いた。
「お前は昔から、水のある場所ばかり見ていた。」
「この国にないものですから。」
アルが笑うと、ふふんと祖父も表情を緩めた。
「そうかもしれん。」
祖父は茶をすすった。しばらくして、アルは聞いた。
「本当に……桜って、雪みたいに降るんですか。」
レルメドールでも、標高が高い場所では氷点下まで下がり、雪が積もった。この村や、アルの住む場所でも例年雪は珍しくない。けれど、祖父の言う「降る」の意味はきっと、少し違う。
祖父は少し笑った。
「お前、昔も聞いたな。」
「覚えてません。」
「嘘つけ。」
祖父の口調は荒くても、諭すような声の響きには、孫に対する愛情がこもっている。アルの方も、過去のふたりの時間が胸に戻っていた。
「で、どうなんですか。」
アルがお茶の入ったカップを口元で傾けると、確かな熱と風味が、喉の奥を巡っていった。
「……降る。」
「寒いですか。」
「春は寒くない。静かだ。」
祖父は、窓の外を見ながら続けた。
「不思議な国だった。誰も急いでいるのに、どこか整っていた。」
「整っている?」
「列を守り、時間を守る。言葉を飲み込む。」
アルはその言葉を頭の中で反芻した。祖父は続ける。
「だが、静かすぎて、自分の考えがよく聞こえた。」
その言い方だけで。祖父が、何をいちばん覚えているのかわかった。思い出をたどって、大事なものを順に触れていくような口ぶりだった。
「そして、水は豊かだった。川も池も、水槽もあった。」
アルは少し笑った。
「水槽まで。」
「お前は喜ぶだろうな。お前の行くところは、海も近いんだろう。見たこともない大きな水槽が、見られるかもしれんな。」
祖父はおもむろに立ち上がり、奥の棚を開けた。布に包まれた細長い箱を持ってくる。それを机に置いた。
「持っていけ。」
アルは布を解き、箱を開く。乾いた音がかすかに鳴った。
中には古いフィルムカメラが入っていた。金の塗装は、ところどころ剥げていた。しかし、汚れてはいない。大事に手入れされていたことがうかがえる。
「これ……。」
「エルネアで買ったものだよ。昔な。」
祖父が言った。アルは驚いて顔を上げた。
「向こうで。」
「そうだ。」
祖父は少し目を細める。アルはその表情を見て、以前より増えた皺の本数を感じ、視線を落としてしまった。
「よく撮った……。街も、人も。」
アルはそっと持ち上げる。見た目より重かった。
祖父の家の重厚な石壁よりも、ずっと冷たい金属の感触。それなのに、何故か人の手によく馴染んだ。軽くシャッターを押すと、カシャリ、と乾いた小さな音がした。
「景色は消える。……人も、場所も変わる。」
アルは祖父を見る。
「でも、写真は残るだろう。」
祖父はそう言って笑った。背中の壁に、額縁に入れられた写真があることに遅れて気づく。若い頃の祖父が、日本人らしい数人と肩を並べて写っていた。
「お前が見るものを、残してこい。」
アルはしばらく黙っていた。それから、強く頷いた。
「わかりました。」
帰る頃には日が傾いていた。家を出ると、風が少し冷たくなっていた。カメラを鞄の奥へしまう。
胸ポケットにも入るくらいの大きさだった。ただ今は、大事なものをしまう場所へ入れておきたかった。
* * *
バス停へ向かう途中、小さな商店のテレビに人だかりができていた。
店の入口の上、金属棚の隅には、古いブラウン管テレビがひとつだけ据えられている。この村で、まともに映るテレビを持っている店は、まだ数えるほどしかなかった。
ニュースだった。
国境付近で、武力衝突があったという。
死者数名。映像の下には速報が流れている。アルは足を止めた。村人たちの顔は、硬かった。自然とアルの眉根も上がる。
くぐもったアナウンサーの声の後ろで、煙の上がる乾いた土地が映る。映像はときおり縦に流れ、色が緑に偏る。電圧が安定しないのか、音量が急に小さくなった。
「まだ遠い。」
誰かがそう言った。
ニュースの画面が国境付近なら、そうだろう。まだ、ここからは遠い。
そう思えた。
だが、その夜、都市へ戻るバスの窓に映った自分の顔は、少しだけ知らないものに見えた。
まだ遠い。
レルメドール。ここではまだ、日本の静けさは関係ない。
鞄の中で、まるで何かを待つように、カメラが小さく揺れている。まだ撮られていない、景色の重さを知っているかのようだった。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。