避けられた通路【せりふ三題噺 / 氷サンバルソース豚】
ガチャン!
店内のBGMが一瞬止まる感覚。
周りの客の視線が、まずは床で割れた瓶へと集まり、その後、俺の方へと遅れて這いあがってくるのを感じていた。
品出し中の稀にある事故。棚の上方に商品を詰める際に、隣の列の瓶を押し出してしまったらしい。
割れたのは、サンバルソース。唐辛子ベースの調味料で、値段も動きも地味なソースだ。うちの店は業務用サイズの商品も扱うせいで、動きの鈍い商品も棚を埋めている。
サンバルは、スイートチリやサルサソースと比べても、発注頻度は低かった。
むっとする、発酵臭のようなものがあたりを漂う。サンバルってこんな匂いなのか……などと考えている場合ではない。
俺は作業の手を止め、近くの同部門の店員に声をかけた。この現場をみておくよう頼むためだ。まずは誰かがソースで転んだり、瓶の破片で怪我をしたりしないための配慮から。
その後輩店員の女子は言葉を発しないまま、瓶と俺とを交互に見て「ドンマイです」と笑顔で刺した。うるせえ。
次にバックヤードの青果部門に駆け込む。
「すいません。瓶割っちゃいまして。長芋のおがくず、分けてもらえますか。」
* * *
「へえー、そうやってやるんですね。」
後輩はそう言って、俺の作業を見学していた。
湿気調整のため、長芋の箱にはおがくずが入っている。液体入りの瓶を割ったときは、こいつをまぶして液を吸わせて、そのままホウキで片づけちまうのが手っ取り早い。
ちりとりが普段と違う種類のごみを乗せられて、ざりざりと不満げな音をたてた。
俺はソースだったものを瓶の残骸ごと新聞紙と袋でまとめ、床を片付ける。
「それにしても、すっごい香ばしいですね。」
後輩は鼻をひくつかせながら言った。どうやらソースの匂いは俺の鼻の奥にこびりついているだけでなく、床にも取り残されたままらしい。
「ああ……あとで水モップもかけるけど、しばらく臭うだろうな。」
商品のロスは出たし片付けで時間も消費したが、怪我人がなかったことは不幸中の幸いだった。
「まあ、しょうがない。あ、そろそろトラック来るだろ。荷受けの準備しといて。」
「わかりました。」
* * *
ようやく蝉が鳴き始めたころだった。
店内も、季節の移りかわりに連動して変化がある。冷蔵・冷凍品を持ち帰るために設置しているレジ前の製氷機の氷の消費量は、このところ徐々に増えていた。日配の方も、豆腐は木綿よりも絹ごしの発注量が増え、牛乳の売り上げも少し伸びる。
タダなのをいいことに、製氷機の氷を発砲スチロールいっぱいに持ち帰る客を一瞥してから、俺は売り場をチェックしに戻った。
案の定というか、この日は問い合わせが増えていた。
普段なら、「この商品どこにありますか」とか。「こっちとこっちの商品はどう違いますか」みたいな問い合わせが圧倒的に多い。
この日は、「この匂いなんですか」という問い合わせが堂々の一位だった。手押し台車に荷物を乗せた後輩に、すれ違いざま声をかけられる。
「先輩。私今日、一生分『サンバルソースです』って言ったかもしれません。レジでも問い合わせあったって。」
「すまん。でも、俺も同じだよ……。」
ふと見ると、店内の混み具合に対して例のソースの棚は人が少ない。土曜の夕方というかき入れ時にもかかわらず、その通路では呼び込みの声も、どこか遠くでこだましているかのようだった。
もともと、ぐるりと買いまわる客の導線からも少し外れていた。そんな窪んだエリアの棚であることに加えて、謎のエキゾチックな匂いが漂っている。なんとなく警戒して客も避けているのだろう。
一日でなんとか、匂いがとれてくれればいいが。
* * *
その日の閉店作業も、特に景色は変わり映えしない。カゴ台車を片付け、ショッピングカートをしまい、外出しの野菜の一部を冷蔵室へ戻す。
この会社では、レジの一部の社員と、各部門にひとりずつ残る以外はローテーションで早く帰る規定になっており、最終まで残るメンバーは数名だ。
俺はこの日は後輩を帰し、食品部門の社員として残っていた。照明を少し落とした店内で、冷凍ケースにカバーをかぶせて回る。
その際、もう一度例の棚付近に寄った。匂いを、確かめておこうと思ったのだ。
……やっぱり、残っている。
明日も問い合わせを覚悟しておかないといけない。ただ、瓶を割った弊害がそのくらいで済むなら、まあいいか。
そう思って、バックヤードの方を振り返ろうとした矢先だった。
商品棚の奥に、ちらっと見えた。白い発泡トレーが二枚だけ重なっている。冷蔵品を客が適当な棚に戻すことは、たまにある。しかし、戻したにしては、奥すぎる。
引っ張り出すと、業務用サイズの大きなトレーの中身は空で、血を吸ったドリップシートだけが貼りついていた。破れたラベルの端に「豚肉」の文字が確認できる。
……万引きだ。
誰かがここで、持ち込んだ袋かなにかに商品の豚肉を詰めた可能性がある。
匂いのするこの通路は今日、人通りが少なかった。偶然だったのか。それとも、この静けさの隙をついたのか。
俺は棚を見回した。思えば自分も今日は、この通路を避けて過ごした気がする。そこにはまだ、匂いだけが残されていた。
「……これはきついって。」
暗い店内、俺の声が、誰もいない売り場に吸われていった。
※以下の企画に参加させていただきました。
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