リップケース【創作】
リップケースが欲しいと思ったのは、去年の旅行での出来事が原因だった。
バッグの中でリップクリームのキャップが外れ、ティッシュとイヤホンを勝手に保湿していた。
リップの頭がこんにちはしているその姿を見て、どのように挨拶を返すかに困った私は、リップケースを購入することを決意したというわけだ。
ネットで調べて「おや」と思ったのは、とあるフリマサイトに出品されているものだった。色もかわいいし、他のECサイトよりも安く、掲載写真もきれいに写っている。
そのフリマサイトは使用したことがなく、アカウントを作るハードルはあった。けれど、千円もしない買い物だ。試してみるのも悪くない。
旅行に行くまでにどこかへ買いに行く必要があると思っていたので、ネットで買えるなら手間が省ける。
「買いたいと思ってたの、見つけた。」
私は彼氏にそう話したが、一緒に旅行に出かけるその相手は、どうやらあまり興味がなさそうだった。彼氏がいろいろ手配してくれる、泊まる場所や、新幹線の時間ももちろん大事。だけど、私にとってはこの買い物も結構重要なのだ。
* * *
購入ボタンをクリックしてから、少し日が経っていた。旅行の準備をする必要があったのだが、どうもリップケースのことが気になって身が入らない。
──発送しました、の連絡がこない。
この手のサイトでは、発送するのも人間で、その梱包も手作業だ。少し確認や手続きが遅れることだってあり得るだろう。
しかし、思い出す。アカウントを作成した日の夜、サイトの口コミを確認したときのことを。そこに書かれていた一部の声には、不穏なものがあった。
「事務局の対応が不誠実だった」
「無在庫転売をやっている悪質なユーザを発見」
「『プロフ必読』と書き、その中で自分ルールを強要する人も」
私が買ったその出品者のアカウントでは、「発送は購入手続きから一週間以内」と設定されていた。こちらの購入の意思表示は伝わっているはずだし、そうであれば一言、「発送までお待ちください」や「購入ありがとうございます」くらいのメッセージはあってもいいのではないか。
しかし、変わらず音沙汰がない。
そのまま、出品者の定める一週間の期間に到達した。
* * *
リップケースは、どうしても旅行の初日までに持っておきたかった。一度連れていくと決めたものを、今さら選択肢から省けないのが人情というものだ。
いよいよ私は、出品者へ連絡した。購入手続きは終えていること、設定期間の一週間に到達していることを踏まえ、発送状況がどうなっているかを丁寧に問い合わせた。
しかし、そこからさらに丸一日待っても、返信はなかった。「基本、二十四時間以内に返信する」とも書いてあったのに。
旅行の日が目前に迫った、その日の夜。
ついにその購入についてはキャンセルの連絡を入れ、やや割高だったが、似たようなものを大手ECサイトで購入した。到着予定日は、旅行の前日となっていた。
フリマサイトの販売者から連絡があったのは翌日だった。
「勝手なキャンセルは困ります。すでに物品は発送済です。」
目を疑う。発送の連絡がなく、問い合わせに対しての返信はなかったのに、「購入キャンセルの連絡」にだけは即座に返信を入れてきたこの出品者に。
そこからしばらく応酬が続いた。
「購入後も、発送のご連絡はいただけませんでしたが」
「ですから、現在発送中と回答済みです」
「問い合わせにも、返信はありませんでした」
「基本は二十四時間ですが、遅れる場合もあります」
「発送期限も過ぎていますよね」
「それでも、合意なくキャンセルする理由には相当しません」
おそらく、互いの言葉の裏に刃が見え隠れしていただろう。やりとりに煮詰まって、争点は以下となる。
「キャンセルには双方の合意が必要」というサイト規約の文言を通そうとする出品者。「出品者が指定する発送までの期間を過ぎた上、連絡もなかったから仕方なくキャンセルした」という私。
フリマサイトの事務局に間に入ってもらうよう依頼したが、感触のいい返事はもらえなかった。どうやらここの事務局は、事実確認はするものの、利用者同士を取りもってくれることはないらしい。あくまで当事者で解決しろということなのだろう。
この状況について愚痴を言っても、彼氏は聞いてくれない。
「もう面倒なら買って、もうひとつ持っておいたらいいんじゃない」と、そんな、とんちんかんなことを言う。私は旅行の準備そっちのけで、出品者とレスバを繰り広げていた。
広島への旅が、私の意識から遠くなる。
物品はついに届いた。先に届いたのは、届けてもらわなくてよかった方だった。私はもちろん、着払いで返送した。
「こちらはキャンセル済の商品であり、送られたのは誤配だと思われます」
そんな意思を貫いた。こちらとしては、返事がなかったから、他で購入せざるをえなかったのだ。
そんなやりとりを繰り返し、他で買ったリップケースも届いたころ。ようやく折れたのか、「次からは気を付けてください」という捨て台詞らしきものを最後に、出品者からのメッセージ通知はぴたりとやんだ。
──か、勝った。
そう思った。
* * *
旅行当日の朝。部屋はまだ、荒れていた。
床に開きっぱなしのスーツケース。充電器が見当たらない。衣類は洗っているものとそうでないものの仕分けが必要だった。
迎えに来てくれた彼氏は、半分呆れながら言う。
「ねえ、もう少ししたら出る時間だよ。」
私はスマホを握ったまま、最後のメッセージを思い返していた。
──次からは気を付けてください。
何を。
発送連絡か。購入者対応か。それとも、人類との関わり方か?
知らん。
知らんけど、とにかく私は勝ったのだ。少なくとも、論理の上では。
スーツケースは悲鳴をあげつつもなんとか閉まり、家の扉を開けて玄関を出る直前、私は別サイトで買ったリップケースを左手のバッグへ放り込んだ。
いや、放り込んだつもりだった。
手が滑る。
カツン。
聞こえたのは、嫌な音だった。ちょうど今、聞きたくない音だった。
リップケースは床に落ちており、留め具があっけなく割れていた。私は数秒、それを見つめる。
彼氏が言う。
「壊れちゃったね。千円くらい?」
「……千円もしてない。」
「……。」
慰めるのにも、コスパの悪そうな値段だった。
* * *
私は放心状態のまま、マンションのエレベーターのボタンを押す。彼氏は隣で、黙って私の重いスーツケースを転がしてくれていた。
壊れたリップケースは、リップを収めても、開きっぱなしになる。まるきり、ケースの体をなしていなかった。
ふと、建物を出る前。癖で郵便受けを覗くと、私宛の荷物が届いていた。
どこか、見覚えのある封筒。
ゆっくり封を開ける。緩衝材と、透明な袋が覗く。そして、そこには。傷ひとつない、リップケースがあった。
──あの出品者の。
送り返した翌日の日付。受取拒否のスタンプが押されていた。
しばらく黙って、それを見つめる。この、数日間が、走馬灯に変わった。
旅行前の貴重な時間。問い合わせ。
キャンセル。レスバ。着払い。
全部の果てに。私の手元には今、リップケースが二個あった。
一個は壊れていて使えそうにないもの。そしてもう一個は、絶対に使いたくないものだった。
新幹線の時間は、刻一刻と近づいている。急かす彼氏とは裏腹に、私の気持ちは、郵便受けの前でしばらくその足を止めていた。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。