リフトアップ【創作】
社会人一年目の冬だった。カレンダーを見ながら、給料日までを指折り数える日々。
冷蔵庫には卵二個、豆腐半丁、賞味期限の近い納豆。贅沢と呼べるものは、自分の周りに何ひとつ置けなくなっていた。
スマホの銀行アプリを閉じる。五桁の残高は、見なくても覚えていた。
彼女からの、メッセージ通知が光る。
「ねえ、例のローラーさ、色シルバーの方が限定なんだって。こっちに変えていい?」
数秒、画面を見ていた。腹が鳴った気がした。
功は、「いいよ」と返す。
送信してから、天井を見上げた。実家への仕送りを減らして三ヶ月目だった。母は何も言わない。
「社会人なりたてなんだから、自分の生活を優先しなさい。」
そう言った。だから余計につらかった。優先していたのは、自分の生活ではなかったから。
麻衣とは四年付き合っていた。大学二年のとき、バイト先で知り合った。三つ年上。
大人だった。社会のことを何も知らなかった功よりも、ずっと。
服の選び方も、店の予約も、仕事の愚痴の吐き方も知っていた。功自身、最初はかっこいいと思ったし、リードされる感覚が心地よかった。
でも、先に社会に出た彼女は、いつも疲れていた。
そこで、功はもともと好きだった料理の腕を磨いた。洗濯をして、女物の衣類も畳めるようになった。終電帰りの彼女のために、汚れた部屋を片付けた。
誕生日には財布を贈った。記念日にはアクセサリーを。
センスがないという自覚はあった。だから功は、いつも直接欲しいものを聞いた。高価なだけで、良さはわからなかったが、彼女が言うものなら間違いないからだ。
お金のかかる趣味を持たない功には、学生時代のバイトで稼いだ貯金があった。シフトの代わりを埋めて出勤し、理不尽に店長にどやされる日々を経て、積み上げていったもの。
けれど、あっという間に底を尽きた。
働き出したら、収入が大きく増えた。これで少しは楽になると思った。でも、社会人になったら、その分だけ要求されるものも高くなった。
「別に無理しなくていいんだよ。」
彼女はいつもそう言った。そのあとで、「でも元カレは、こういうところが気が利いたかな」と笑った。
そのたび、功には脳に黒いものが混じるような感覚があった。日中のパソコン業務で見るデータや数値の間にも、その感覚は割り込んできた。
麻衣に、捨てられたくない。必要とされたいと思った。
彼女はいつも綺麗で、品があって、美を追求する姿勢を崩さなかった。だけど、いい匂いの正体は、彼にはわからない。
* * *
功が仕事に慣れ始めた頃だった。ミスが減り、はじめは声をかけることを躊躇っていた先輩と業務の話ができるようになっていた。その日は、上司に初めて褒められた日だった。
麻衣に呼ばれた。
カフェだった。白い照明に、甘い匂い。かしこまった雰囲気が、妙に明るすぎる空気を遠くまで貫いていた。
「……功、ごめん。」
その一言で功は察した。正直言って、自分は鈍い。それでも、わかるときはわかる。
「私、将来をきちんと考えたいの。」
「……うん。」
「あなたのこと、決して嫌いになったわけじゃない。」
道徳の教科書ででも読んだのだろうか。聞いたことがないのに、聞き覚えのあるセリフが耳に触れる。彼女は、紙ナプキンを指で折りながら言った。
「正直……経済的な不安がある。」
功は黙った。それは反論しづらい言葉だった。社会人一年目の自分に、どうにかできる部分だっただろうか。けれど、努力不足と言われればそれも否定はできない。
もっと稼げる仕事があったかもしれない。資格を取っていればよかったかもしれない。就活は頑張ったが、妥協した部分もある。説明会や面接に使う電車賃も、馬鹿にならないと思った。他のことを、優先した部分がある。
あのとき、自分を応援してくれたのは、家族と。他に誰だっただろう。功は、ネクタイを買ったショップで店員さんに言われた、「リクルートですか」の言葉を思い出していた。
もっと、もっと。
彼女の言葉と口ぶりは、自分の責任みたいに聞こえた。
「……そっか。」
それしか言えなかった。帰り道、功は駅のホームで泣いた。道ゆく人の流れの中で、抑えることができなかった。
* * *
一週間後。
功が麻衣を見かけたのは、共通の知人のSNSでだった。
彼女は、知らない男といた。新しい店に、新しいコートで。最近、見なくなっていた笑顔を浮かべて、写っていた。
投稿日時は、別れ話の三日前だった。
自室で、しばらく画面を見ていた。あれからというもの、功は漫然と仕事へ行き、帰り、いつも通りの生活をするフリをしていた。もともと資源を豊富に持たなかった心の泉は、枯れて底が見え、ひび割れていた。
一部の同僚に、声をかけられたが、なんと言われたかは思い出せない。付き合っていたころの、彼女のことは忘れることができないのに。
それから、スマホを伏せた。どうしてだろう。これ以上余計なことを感じないように、だったのかもしれない。
段ボールが、部屋の隅にあった。中身は、限定モデル、プロ仕様の高級美顔ローラーだ。
別れる前日に届いたもの。未開封の上、返品期限はまだ間に合う。箱を開けると、本体の銀が目に飛び込んでくる。
ふたつの球がついた、奇妙な形状。
馴染みも思い入れもないくせに、一丁前にずしりと重い。これ一個で、母への仕送り一ヶ月分だった。それも、減らす前の仕送り額だ。
功は笑った。笑ったつもりで、声は出なかった。喉から、変な音が出ただけ。
次の瞬間、机に叩きつけていた。表情は、なかった。
バキッ。
甲高い破断音。球がふたつ、左右へ転がる。
カラカラ……と床を走り、壁に当たって止まった。
床に座り込む。また涙が出た。こんなときだけ、咽ぶように、でもちゃんとした声が出る。怒りなのか悔しさなのか、自分でもわからなかった。
「……なんだよ……。」
部屋に向かって呟く。本体だけになったローラーは、妙に間抜けだった。使い方を知らない功を、小馬鹿にしているようだった。
* * *
春が来た。
新しい大型テーマパークがオープンした。美容・未来・ウェルネス体験型施設。
「未来で輝く女性」がコンセプトとして据えられ、SNSで話題となっていた。
入口中央には、巨大なクローム球体オブジェ。それは、ふたつの大型球体が同期回転する象徴モニュメントだった。
「わあ!」
麻衣がスマホを構える。隣の男が笑う。
「インスタ映えするじゃん。」
「ねえ、見て。面白いかたちね。」
男が適当に頷く。スタッフが遠くで、無線を飛ばしている。
誰も気づかなかった。完全に同期していた球体の回転リズムが、ほんのわずかにずれたことに。
ゴ……。低い音。
ひとりのスタッフが顔色を変える。
「逃げろ!」
割れる無線。響く警報。すべてが、遅い。
球体を支える固定軸のロック機構が外れる。ゴォッ、と強い音が一瞬早く届き、麻衣は振り返った。
ふたつの巨大球体が、傾斜面へ落ちた。麻衣には、それがゆっくりに見えた。けれど、ありえない質量で迷いなく、接近してくる。
周囲から、悲鳴が上がった。
男が目を見開き、体勢を変えた。
しかし、その瞬間。男の手は、麻衣の手を引かなかった。ただ自分に従った。反射的に、ひとり横へ飛んだ。
麻衣は一瞬、理解できなかった。視界いっぱいに銀色が広がる。回転していることに気づいたときと、視界が黒く塗りつぶされるのが同時だった。
ふたつの、冷たい金属面。接触。圧迫。
ひときわ大きな、誰かの悲鳴。
空は、美しい光をそこに落としていた。
* * *
数週間後。通勤電車で。
功はニュース記事を流し読みしていた。
「テーマパーク設備事故、女性一名死亡。原因調査続く……大型球体モニュメント固定機構に異常か」
搬出される銀色の球体の写真。功は顔をしかめ、同時に指が止まる。妙に、見覚えのあるかたちだった。何だったか思い出せない。
なぜか不快に感じ、スマホを閉じる。
窓の外へ目をやる。春の日差しが明るい。その日電車は、定刻通り走っていた。
ふと思う。
……あのローラー、どうしたっけ。
記憶が曖昧だった。壊したとき、掴んでいた部分は、机の上に置いた気がする。
でも、部屋のどこかに、まだ転がっている気もした。
ふたつの球だけが。
静かに。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。