小さな嘘と遅れた音【創作】
「六年生合同合唱」の発表。ある日の朝礼で、先生がこの話をしたときから、私はその伴奏者に選ばれたかった。
みんなの歌声のいちばん近くで、みんなのために演奏をする。そんな席に、ずっと憧れていた。
朝の教室の空気は、まだ白く曇っている。
この時期は指先が冷たくて、ピアノ教室のときに鍵盤をたたくと、凍えるような感覚がした。
クラスでは、私はピアノの上手い子で通っている。ピアノ教室でも「感情をこめて弾けるようになってきたね」と最近褒められたところだ。クラスの代表に選ばれるのは、きっと難しくない。
けれど、その会では、クラスの代表を決めてオーディションをして、学年の合唱のときの伴奏を決めるという。つまり、他のクラスの子とも競わなければならない。
私は、別のクラスの友達、理子のことが頭をよぎった。四年生のときに同じクラスで仲のよかった彼女は、コンクール入賞経験もあるほどの実力の持ち主だ。
──理子ちゃんも、クラス代表になるだろうな。そしたら──。
* * *
下校のチャイムが鳴り、校門の前にたどり着いたとき、ちょうど見覚えのあるポニーテールが前で揺れていた。私は声をかける。
「理子ちゃん。」
「美緒ちゃん?」
理子が振り返り、一緒に帰ることになる。
冬の冷たい空気が吹く中、隣に並ぶ。
同い年なのに、理子の方が私よりだいぶ背が高い。
私たちは、最近見た動画の話やクラス内での話ももちろんする。けれど、自然と共通の習い事であるピアノのお稽古の話題になることが多かった。
「合同合唱の伴奏の話、あったね。」
理子の方からこの話題を切り出した。
私が、理子ちゃんも来週のオーディションでるよね、と言いかけたところで、彼女は続けた。
「私、この週末に家族と用事でおでかけするから、あまり練習する時間がないんだよね。」
──じゃあ、オーディションは出ないの? と私は聞きたかったが、その後すぐに別の話題にうつってしまい、なんとなくこのときは聞けずじまいだった。
* * *
昼休みに入ってしばらくして、音楽の先生が、私たちの六年二組のクラスにやってきた。
「香月さん。香月美緒さんはいる?」
私は友達に、音楽の先生が来ていることを教えてもらい、廊下に出た。オーディション参加の意思確認らしい。もちろん、参加しますと答えた。
「間宮理子さんは、最近どう? 彼女も出られそうか、あなた聞いてる?」
音楽の先生は、一組の理子もピアノが上手いことや、私と彼女が仲のよいことも知っている。
「理子ちゃんは……。」
言葉が、私の口をついて出た。
「忙しくて、あまり練習する時間がとれないって言ってました。」
自分で答えておいて、はっとする。
なんでこんなことを言ってしまったんだろうと思った。
彼女が、週末時間がないと言っていたのは本当だ。しかし、この答えでは、彼女が出たくないと言っているように聞こえる。
「……そう。ありがとう。」
音楽の先生はそれだけ言うと、くるりと後ろを向いて廊下をスタスタと歩いていった。
私が言ったのは、小さな嘘だ。
どうしよう。どうしよう。
指先が冷たくなり、息が少し苦しくなる。
弾いている曲が転調したときのような、空気の色が変わった瞬間だった。
理子とはそこから、しばらく会う機会がなかった。いや、私が、隣のクラスを無意識に避けていただけかもしれない。
* * *
次の週の昼休み、六年生の各クラスから希望者が集う。
音楽室でのオーディション。合同合唱の課題曲の弾き比べだ。
審査員は、音楽の先生と学年主任のふたり。
音楽室の掲示板に貼られたオーディションの出場者リスト。そこに、理子の名前はなかった。
四クラスのうち「一組からは希望者なし」とある。
空白の一行に、私は喉がカラカラになった。
私のついた「嘘」のあと、もちろん先生は、理子のクラスにも直接聞きにいったと思う。
──そのとき、先生がなにか言ったのかな。私が言ったことを、理子ちゃんに話したのかな……。
私は少し緊張しながらも、その日の課題曲をそつなく弾くことができ、あっけなく合同合唱の伴奏者に選ばれた。
* * *
「六年生合同合唱」の発表当日、体育館。
ステージの上、ピアノの前に座る。保護者たちもたくさん観覧にきていた。
不思議とこのとき、私に緊張感はなかった。真剣に向き合って、時間をかけて練習してきたからかもしれない。
足元の補助台を、ちらっと見る。
きっと、背の高い理子なら、もうこれはいらないだろう。
代表に選ばれてから、本番までの間には、何度か理子とは顔も合わせて話すことができた。けれど、オーディションの話はしなかった。
結局彼女がなぜ参加しなかったのか、私は聞くことができなかった。
理子は、私が伴奏者に選ばれたことは知っていて、この朝も笑顔で「がんばってね」と声をかけてくれていた。
波のような大きな拍手が引いてゆき、館内が静まり返る。
ピアノの中で、複数のハンマーが弦をたたいて、伴奏の最初の音が響く。
その和音が鳴る瞬間、胸の奥がずしりと重くなる。
視界の隅で、合唱グループ内の理子がちらりとこちらを見ていた気がした。
はじまった私の演奏は、テンポも強弱も、思っている通りに流れていた。
だけど、音自体がどこか硬い。自分でも「何か違う」と感じる。
指が震え、音がかすかに濁る。
──中盤で、ペダルの踏み替えミス。
それをきっかけに、心がぐらりと揺れて、一瞬音が遅れた。
歌っている方も、聴いている方も、気にならない程度かもしれない。
でも、日ごろからピアノに触れている人は。
──理子は、きっとこれに気づいただろう。
見たくないのに、考えたくないのに。
視線が、自然と理子を探してしまう。
彼女はまっすぐな視線で、正面を向いて歌っていた。
ぽつりと私の心に悲しい音が響いた。
──この音、いったい誰のために弾いてるんだろう。
私は落ち着きを取り戻し、中盤の細かいミスをリカバリーするように、最後の和音まで弾ききることができた。
けれど、その後の大きな拍手の音は、私の耳をすり抜けて、どこか遠くで聞こえている気がした。
* * *
その帰り、声をかけてきたのは理子の方からだった。
走ってきて、ポニーテールが元気に揺れていた。
この日の午後の空気はすでに春みたいにやわらかく、理子の頬は赤みがさしていた。
「美緒ちゃんの音、すっごくきれいだったよ!」
私は、少し照れてありがとう、と言った。
きっと、笑顔はぎこちなかったと思う。
「今度さ、うちの発表会、一緒に出ようよ? 同じステージでさ。」
夏に市民会館である、理子の通っているピアノ教室主催の発表会のことだ。私にとっては少しレベルの高い発表会だけど、すぐに返事した。
「うん、出る。いっぱい練習するよ。」
もとより、卒業して中学に入ってからも、ピアノは絶対続けるつもりでいた。
今度こそ、自分のための音で、彼女と向き合いたい。
全力で。まっすぐな気持ちで。
濁ったように、固いように感じた体育館でのあの音は、きっと私の心がそう響かせていたんだと思う。気持ち次第で、私の音は、もっときれいで柔らかくなれる。
ぎゅっとにぎった右のこぶしが、武者震いのようにかすかにふるえていた。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。