家旅【創作】
今でもときどき、思い出す。
中学一年生の私は、家庭科の中間考査の解答欄に、その答えを書いた。
「家旅」と。
問題の真の回答は「家族」だ。おそらく「同じ家で生活を共にする人々を指す、最小単位の共同体を漢字二文字で何というか」のような問いだっただろうか。家庭科の教科書の最初のページに書いてあるような初歩的な問題。いろはのいである。
「家旅」だと、まるで旅行の話みたいだ。
頭ではわかっていたはずの、求められている答えと、書くべき文字。
だけど。手の動きの癖が出たのか、集中しきれていなかったのか。書かれた文字はそれだった。
結果が返ってきてはじめてそのミスに気づいた。全体の試験の成績はそこそこだったけど。なんとなく、その家庭科の答案用紙だけは、誰にも見せたくない感覚になったのを覚えている。
* * *
私の中で取り残された感覚は、ふとした瞬間に顔を出す。それはもしかしたら、今のような芽吹きの季節に多かったかもしれない。
私はその日、恋人の健と駅までの道を話しながら歩いていた。まっすぐ伸びた歩道の片側に、青々とした木々の緑が咲いている。風が吹けばまだ肌寒く、陽の光はあたたかい。服装に戸惑う、季節の変わり目に挟まれた日だった。
「本当に、健くんって、家族と仲いいよね。」
私は彼に、よくこの言葉を使う。本心で、毎回そう思うから口に出る。
「そうかな。普通だと思うけど。」
そしていつも健は平然としていた。この人も、どちらかといえばウソは苦手な人だ。きっと本当に、彼にとっては普通なんだ。
「休暇で帰るのはわかるけど、しょっちゅうご両親やご兄弟とご飯食べにいってるじゃない。」
「まあ、昔は俺も親ともよく喧嘩したし、嫌いだったけど。もう年だし、様子見もかねてかな。」
ふーん、と前を向いて難しい顔をしたのが、機嫌を損ねたように見えたのかもしれない。取り繕うようにこちらの顔を見て彼は言った。
「別に奏のとこも、家族と仲が悪いわけじゃないんだろ。」
「うん。でも……。」
自ら望んで、帰りたい場所ではない。何かあったと言われれば、すぐに向かうと思う。「すぐ」がどのくらいかは、何か起こってみたいとわからないけど。
そして私の場合、「家族だから当然」じゃない。どちらかといえば「家族だから仕方なく」に近い。家族という名の仕組み。それに囚われてしまっているような感覚があったのかもしれない。
風が通り抜けて、思わず身をすくめる。健の左手が、私の右手を握った。
「また、うちの家族とご飯でも行こうよ。親同士もまだ会ってないしさ。」
私は、健のご両親とは何度かお会いしている。けれど、私の親にはまだ、会わせていなかった。
健と結婚したい気持ちはある。彼と家族になりたい気持ちも嘘じゃない。
だけど、「家族だから当然」という気持ちの部分で、彼との間に埋められていない溝がある気がしていた。
* * *
小学校も中学校も、高校のころも。
家での食事が楽しくなかった。
家で出る母の料理は、美味しいはずだった。いい匂いがして、彩りがあって。でも、ほとんど味はしなかった。
食事中は、テレビを点けるのは禁止。父いわく食事の時間は「家族の時間だから会話をしないといけない」。それが理由だった。
よそ見をしていれば怒鳴られ、汁物をこぼせば頬をはたかれた。
私はうつむいて、父の機嫌を損ねないことだけに意識を集中させ、「早く終われ、早く終われ」と思いながら──平静を装って、箸でつまんだものを口に運ぶ作業をつづけた。
雰囲気を人質にとられた中で、楽しい会話が生まれるわけがないのに、それをずっと続けていた。それが「家族」というものだったからだ。
弟は、中学で自室から出てこなくなった。母は泣いていたけど、それをどう受け取ればいいのかわからなかった。
それをきっかけに家では「みんなで食事をする時間」がなくなったので、むしろ助かった、と感じていたと思う。
家族という仕組み、そこに囚われる要素が、ひとつ減ったと思って──。
* * *
「じゃあさ、家族ってのは奏にとってなんなの?」
「えっ?」
回想から戻るころ、私たちはもう駅前にたどり着いていた。気づかないうちに、歩道を抜けて横断歩道を渡り切っていたことに驚く。
「そんな急に聞かれても、一言じゃ難しいよ。」
「はは、それもそうか。」
私はふと立ち止まって、聞いてみた。
「逆に、健くんにとってはどうなの?」
「そうだなあ。」
彼もあわせて、少し遅れて歩を止めてくれる。
「離れても変わらない、切っても切れない関係性って感じかな。」
このときも彼の横顔は、どこか平然としていた。
切っても切れない。
──関係性が変わっていなくて、今もつながっているという意味では、私の家族も、私の家族であることには間違いない。
「お!」
黙り込んでいると、彼が隣を指差した。
「ここ、開いてるじゃん! 入る?」
私が前から行きたいと言っていたものの、通るたびにしまっていた、焼き鳥屋さんだ。そういえば、辺りを風に乗って、香ばしい匂いが漂っている。
「うん、入ろう。」
私はお店に入れることよりも、彼がこのお店のことを気にしてくれていたことがうれしかった。
「それとさ。」
少しはにかんだように、彼は続ける。
「ご飯のとき、もっと話聞かせてよ。ご家族のこととかさ。……結構、頑張って話振ってんだぜ、これでも。」
はっとした。私は彼との食事中、聞かれれば応じるけれど、自分からはあまり話さない。彼が話したいのだと思って、うんうんとうなずいて聞いていた。それでいい、と思っていたけど。
その場の空気を、彼に押し付けてしまっていたのかもしれない。
私も話そう。いろいろなこと。
受け身で、助けてもらうことが多いけれど。話すことで、また支えてもらうことになるのかもしれないけど。
「わかった。私、健くんに聞いてほしい話、あった。」
家族との関係性が薄いこと。これから自分の中での「家族」を、これから作るものとして考えていきたいこと。どもっても、うまく伝わらなくても、彼ならきっと、向き合ってくれる。
私にはまだ、拠点としての家族はない。
でも、今になってようやく思う。
あのときの「家旅」は、間違いじゃなかったのかもしれない。
私にとって家は、ずっと通り過ぎる場所だったから。
目の前で微笑む彼の中に、私はまだ輪郭のない何かを見ていた。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。