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からあげはスープを泳ぐ【創作】

社員食堂は、財布にやさしい。ご飯はおかわりができたし、お茶も自由に注げる。

券売機に書かれたメニューは代わり映えしないが、専用のプリペイドカードにチャージしておけば、昼食のとき余計なことを考えずに済んだ。

大抵私は、貼られている二種類の日替わりメニューの写真を見て、そのどちらかを選ぶ。隣に並ぶ「カレー一杯六百円」の文言。その横棒が重なる部分に、なんとなくいつも居心地悪く感じさせられていた。

十二時台は人が多い。かといって、少しでも時間が遅れると魅力的なメニューから売り切れになっていく。

人が多い中、私は基本ひとりでお昼をとっていた。家で弁当でも詰めてくる方がコスパが良いだろうし好きな場所で食べられる。けれど、冷凍のおにぎりと卵焼き程度しか用意できない。早起きして頑張ればもちろん作れるが、よそ行きの格好をしたお弁当を準備することが、果たして「自分のため」になるのかは疑問だった。

少しざわつく食堂内。後ろを人が通るたび、気をつかって椅子を引くような狭さ。トレイの上の動きも、食器の音も、みんなそれぞれ混ざって空気に溶けている。

ご飯にあわないおかずの日には、白ご飯が少し余る。

斜め前の席では、味噌汁を飲み終えた男性が、湯呑みにお茶を注いで、ご飯の上にかけて食べていた。さらさらと、音をたてて。

特に周りを気にする様子もなく、そのまま箸を動かしている。

私はそれを見て、少しだけ、いいなと思った。私だって、家でなら、塩をかけるか、お茶漬けにでもしたかもしれない。

でも、人がいると、手が止まる。

こういう場所で、別の食べ方をするのは、思っているより目立つ気がする。私のことなんか、誰も見ていないとわかっていても。

ああいうふうに、迷わずやれるのは、楽そうだ。

誰に止められているわけでもないのに、なんとなく、そういうものじゃない気がしている。特に私が、それをするのは。

* * *

返却口に返すため、食器を水洗いする。その間、今朝上司にメールを添削されたことを思い出していた。

「ここ、丸かっこの前、半角スペース入れて。」

画面を指でなぞりながら、当たり前みたいに言われる。

「読みやすさが違うから。」

そうなんですね、と返しながら、私はその場で修正した。

別の日には、別の人に違うことを言われたこともあった。スペースは入れない方がいい、と。

どちらが正しいのかは、よくわからない。

たぶん、どちらでもいいのだと思う。

でも、その場においては、言われたほうが正しくなる。そのときそのときで、自分を曲げて、従うしかない。 

総務の人に言われた、封筒の書類の入れ方についても同じだった。

「縦と横が混ざるときはね、封筒に対してこうして。」

手元でくるりと紙を半分回して見せる。

「取り出したときに揃うようにしておく。常識だから。」

なるほど、と思った。

でもあとで調べると、違う入れ方を勧めている記事も出てくる。入社前に買った秘書検定の本にも、果たしてそこまで細かく書いてあったかどうか、自信が無い。

たぶんどれも、それぞれに理由があって、それぞれに「これが常識」と書いてある気がする。

私はそのたびに、少しだけ立ち止まる。正しさは、ひとつじゃないのかもしれない。

でも、今いる場所で「これが常識」と言われれば、それを私は「常識」として受け止めるしか、ない。

* * *

お昼過ぎ、自分の席に戻って、社内連絡のメールを一本作る。送信元は所属部のいつものグループアドレスを指定する。

宛名を打ちこんだ。

「〇〇さま」

変換すると、「様」が出る。けれど私は、それを消す。ひらがなで打ち直す。

その理由は、正直うまく説明できない。その方がやわらかい気がする、とか。偉そうな感じがしない、とか。そんな曖昧なものしか出てこない。

たぶん「様」の方が、ビジネスメールとして整った、正しい姿だ。

それはわかっている。それでも私は平仮名を使う。ここだけは、変えたくないと思っている。誰にも言ったことはない。 

送信ボタンを押す。

これも、もし指摘されたら。「様」にするのが常識だから、って言われたら。今のままの私で、いられるだろうか。

私は手元の封筒に視線を落とす。もう一度取り出して、クリアファイルに正しい向きで書類が入っているか確認しようと思った。

* * * 

退勤が遅くなった日、私はひとりで早めの夕食を取って帰る。洗いものが苦手な私は、料理は好きだが後片付けが嫌いだ。後片付けを先にして、あとで料理を作れればいいのにといつも思う。

会社から少し離れた、小さな定食屋。少し重い扉ががらがらと音を立てる。古びているが、ここは大抵混まないし、会社の連中も来ることが少ない。水を入れるグラスがいつもきれいに洗われているところが気に入っている。

カウンター席に座ると、隣との間にほどよい距離があって、背後に誰か座っても、会話もあまり届かない。社員食堂より、ずっと静かだった。

普段は煮物や魚を頼むことが多かったが、今日はからあげ定食を頼んだ。

運ばれてきたそれを見て、少しほっとする。見た目は普通で、気になるところもない。からあげが五個。キャベツの簡単なサラダ。ご飯。わかめスープのセットだった。

どちらかといえば量が男性向けな気はしたが、今日はお腹が空いていたのでちょうどよかった。

一口食べて、さくっとした食感と香ばしい鶏の香りが広がる。そのあとで、少しだけ顔をしかめた。

塩が強すぎる。

二口目で、はっきりとわかる。揚げた後に塩コショウを多めにふりかけてあって、このままだとすべて食べるのはきつい。

からあげとしては美味しい。残すほどではない。

でも、最後までそのまま食べるのは、少ししんどい。

周りをちらりと見る。そもそも、私以外に客は数人しかいない。店主も、奥で他の作業をしている。

そのとき、店内に設置されたテレビから、バラエティ番組での演者の笑い声が少し大きく響いた。

箸を止めて、ほんの少しだけ考える。

食べ続けるか。残すか。

それとも……。

テーブルの端に、わかめスープが置かれている。最後に飲もうと思って、まだ口をつけていない。

少しだけためらう。

それから、からあげをひとつ、そっと箸で持ち上げる。

スープにくぐらせる。

持ち上げると、表面の塩気が少し抜けているのがわかる。

口に入れると、ちょうどいい。

思わず、もうひとつ同じことをする。さっきまでの食べにくさが、すっと消えていく。

誰も見ていない。別に見られていたとしても、たぶん何も言われない。でも、これは、あまり人に見せる食べ方じゃない気はしている。

何をしてるの? って誰かに見られたら、どう答えようか。

「タレにつけて食べている」よりも、「塩味をぼやかしている」よりも。「からあげを泳がせてあげている」の方が、おしゃれかもな。そんな、くだらないことを考えながら。

それでも、手は止まらなかった。

からあげをスープにくぐらせて、ご飯を口に運ぶ。気づけば、最初よりも、ちゃんと味わって食べていた。

正しい食べ方ではない。上品でも、きれいな食べ方でも、たぶんない。

でも、いちばんしっくりくる。食べ終わって店を出ると、外の空気は少しだけ軽く感じた。

* * * 

私はまた、社内メールを下書きしていた。

変換された「様」を、一度だけ見て、それから消す。ひらがなに打ち直す。それだけのことなのに、以前よりも、迷いが少なかった。

正しさは、たぶんいくつもある。

どれを選んでも、大きく間違いになるわけじゃない。それでも、自分に合う形は、その中にひとつだけある気がする。

誰にも見せない、指摘されない、私のやり方。ほんの小さなことばかりで、誰も気にも留めないようなこと。

全部を手放してしまったら、自分がどこにいるのか、少しだけ分からなくなりそうだと思う。

キーボードに手を置き、カタカタとタイプしたあと、マウスで送信をクリックした。

これが私の、常識でいい。

あの夜の食べ方が、どこかに残っている気がした。


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財布野紐ゆるみ 書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。