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香りは、残りますか【創作】

雨は、昼過ぎから降り出した。

私は店先に出していた鉢物を半分だけ中へ戻しながら、今年の二月はやけに雨が多いなと思った。道路の向かいのクリーニング屋の軒先にも、濡れた傘が何本か立てかけられている。

花屋は春先が忙しい。

卒業、送別、退職、発表会。二月の終わりから三月にかけて、店の冷蔵ケースは急に明るくなる。チューリップ、ラナンキュラス、フリージア、スイートピー。十二月の赤一色から、しばらく硬い色が続いたかと思えば、それが急にふわりと軽くなる。

私はピンクのスイートピーの束をほどきながら、痛んだ花弁を指先で取り除いていた。甘い匂いが、かすかにする。

「すみません。」

声をかけられて顔を上げると、入口に女の人が立っていた。三十代くらいだろうか。ベージュのコートの肩のあたりが、少し濡れていた。傘を閉じたばかりらしく、足元には小さな水たまりができている。

「お花の予約、できますか。」
「はい、もちろん。」

私はエプロンで手を拭き、カウンターへ回った。店内は照明を落としてあって、その表情は読めないが、もの静かな女性だった。

「花束でしょうか?」
「ええ。……知り合いに、贈りたくて。」

少し考えるような間があった。

「どんなご用途ですか。」

注文票を取り出して相手の方を見ると、彼女はケースの方へ視線を向けていた。

「お祝い、とかではなくて。」

そこで言葉が止まる。私は待った。花屋では珍しくない。うまく説明できない人は多い。

「ではお餞別、とかですか。」

それを聞いて、女が少しだけ顔を上げた。

「そうですね、近いかもしれません。」

私は頷いた。

「でしたら、明るめでまとめましょうか。」
「はい。お願いします。」

注文票にペンを滑らせていると、女の視線が作業台の横のバケツで止まっていた。

「……そのお花は、入りますか?」

ピンクのスイートピーだった。春先の門出に、スイートピーを贈る人は多かった。

「はい、入れられますよ。色もこちらで?」
「ええ、それをメインで。」

即答だった。その人が好きな花なのかな、と思った。その旨を、注文票に記載する。

「他に、お好みありますか。」
「お任せします。」
「お渡しする方は、女性でしょうか?」
「……まあ。」

曖昧な返事だった。私は注文票を提示した。予算、五千円。ラッピングは柔らかい色味。受け取り日の確認のとき、少し会話が止まった。

「三月頭、くらいで。」
「一日、二日、三日、どのあたりでしょう。」
「ええっと……。」

女は困ったように笑った。

「決まったら、行きます。」

私もつられて、笑う。

「では、お取り置き期間を少し長めにしますね。」
「助かります。」

支払いは先に済ませた。現金の一括払いだった。五千円札には、少し皺があった。

帰り際、女は入口のところで振り返り、「香り、残りますかね」と言った。

「スイートピーですか?」
「はい。」
「けっこう香りますよ。優しめ、ですけど。」
「そうですか……。」

それだけ言って、ぺこりと頭を下げ、雨の中へ出ていった。濡れたコートの背中を、私は遠目に見送った。変わった人だな、と思った。

それだけだった。

* * *

三月に入っても、その客は来なかった。電話をかけても、出ない。

店長には伝えてある。ただ、「日付、決めてもらった方がよかったかもね」と苦言を呈された。

花束のスイートピーが少し開きすぎていた。私は花を組み直した。新しいものに替えて、ラッピングもやり直す。

それでも来ない。

都合が悪くなったか、あるいは忘れられているのか。

無断キャンセル自体は珍しくない。ただ、前払いで、電話がつながらなくて、受け取り日だけが曖昧だった注文というのは、なんとなく気になった。

閉店後、注文票を整理していて、住所欄を見た。店から歩いて十分もかからない。近所だ。

そう思ったのは、単なる偶然だった。「様子を見に行こう」。決めた理由は、あとからうまく説明できなかった。

苦情を言いに行くつもりでもなかった。花を捨てる前に、一度だけ確認したかったのだと思う。

少し前に降った雨も、今はすっかり上がっていた。

住宅街の角を曲がると、日常から少し切り離された景色があった。門の脇に、白黒の幕が立っている。玄関先に黒い靴が並び、外に折り畳み椅子が出ていた。

いまどき珍しい、自宅葬だった。

足を止めた。一瞬、住所を見間違えたかと思った。けれど表札は、注文票と同じ苗字だった。

胸の奥が、すっと冷えた。迷ってから、インターホンを押した。出てきたのは、疲れた顔をした五十代くらいの女性だった。

「あの……近くの花屋の者なんですが。」

それだけで、相手は小さく頭を下げた。

「供花のことでしょうか。」

違います、と言いかけて、言葉を飲んだ。

「ご予約を、いただいていて……。」

女性の表情が少し曇った。

「……ああ。」

小さな沈黙があった。

「娘が、ですか。」

答えられない。でも、おそらくそうなのだろう。

「……本当に、急なことで……。」

そのあとに続いた説明を、私は半分しか聞いていなかった。亡くなる前の数日間、意識が戻らないままだったという。

彼女の口からこぼれる言葉の中に、事故に遭った曜日と、時間があった。

それだけが耳に残る。

今日までに、注文票を何度も見たから。その日、その時間。あの、雨の日の夕方だったから。

重なっていた。店で、スイートピーの注文を受けていた時間と。

頭の中で、雨音が戻ってきた。ベージュのコート。濡れた袖。

──お餞別ですか。
──近いかもしれません。

注文票を握ったまま、立っていた。女性が何か言った。私は我に返る。

「あの、予約のお花……」

言いかけて、止まった。言えるわけがなかった。来店した日時も、会話も、雨の匂いも。間違いなく私の中では存在した。ただ、それを、目の前の相手に伝える意味だけが見当たらない。

「……後ほど、お届けにあがります。」

気づけば、そう言っていた。女性は少し驚いた顔をしたが、「ありがとうございます」と頭を下げた。

* * * 

店へ戻って、私は冷蔵ケースを開けた。予約の花束は、まだそこにあった。

ピンクのスイートピー。ラナンキュラス。薄いグリーン。予約票には、「贈り花」にチェックが入っている。

包み直そうとして、手が止まる。

葬儀に、明るい花束。白を足すべきだろうか。落ち着いた色に変えるべきか。

けれど結局、何もしなかった。あの人に、注文されたままにした。それ以外のかたちを、思いつかなかった。 

家の人は恐縮した。

「わざわざどうも……。」

私は曖昧に笑った。

「お知り合いの方から、ということで……。」

嘘とも、本当とも言えない言葉を置く。花束を受け取ったのは、最初に出てきた女性だった。

その女性は、ラッピングをほどきかけて、ふっと手を止める。それから、ほんの少し笑った。

「ああ。」

その声は、驚きに近かった。

「……この花、好きだったんです。」

指先が、スイートピーの花弁に触れる。

「あの子。」

何も言えなかった。甘い香りが、かすかにした。

──香り、残りますかね。

あのときは、彼女の言う「香り」がどこに、いつまで残るのかなんて考えなかった。

部屋の奥では、誰かが小さな声で話していた。生活の音だった。特別なことは何もない、誰かの家の音。

* * *

帰り道、雨上がりの空気はまだ冷たかった。

店に戻れば、明日の送別用の花束を作らなければならない。電話も何本か返さないといけない。

春は忙しい。

私は歩きながら、自分のコートの袖に、微かにスイートピーの匂いが移っているのに気づいた。

鼻に、袖を寄せる。

春先の門出の花だと、あの日頭をよぎったことを思い出す。その言葉が間違いだったとは、なぜか思わなかった。


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財布野紐ゆるみ 書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。