白紙と、その手【風まかせ文芸部 / 白紙】
誰かの、呼ぶ声が聞こえる。
少し遅れて、大きな光の塊が、僕の視界全体に広がった。
ベッドの周りに立つ人たちは、心配そうに名前を呼び、手を握り、ときに涙を流した。申し訳なさそうに、頭を下げる者もいた。
だが僕の目には、そのすべてがどこか現実感を欠いたように見えていた。彼らが何に対して感情を向けているのか、理解できなかった。
事故に遭った、と聞かされた。
時期は中学三年の冬の終わりごろ。横断歩道で車にはねられ、三週間ほど意識が戻らなかったこと。そして、命が助かったのは奇跡に近かったことも。
けれど、僕は何も覚えていなかった。事故のことも。それ以前のことも。
きょとんとして静まり返る、当時の僕の関係者たちの顔は、どこか滑稽だった。
自分に関する記憶だけ、きれいに抜け落ちていた。一般常識や言葉、日常生活の仕方はわかるのに、「佐伯寛人」という人間がどんなふうに生きてきたのかが、わからない。
謝られても、泣かれても、それを受け取る場所が僕の中にはなかった。
──どうやらなにか、大変なことが起こったらしいな。
映画を見ているような、そんな他所事の感覚だけが、白い紙のように胸に残っていた。
* * *
それから約二年が過ぎた。
僕は定期的に病院へ通いながら、日常生活を送っていた。教えてもらった生年月日によると、今は十六歳。高校二年相当の年齢だ。しかし、進学先に通っているわけではない。履歴書に書くべき数年間は、ぽっかりと空白のままだった。
僕は今、何がやりたいんだろう。
記憶を失う前に、やろうとしていたことがあったとしたら。今、何かを見つけて手を出してしまうと、そのあと記憶を取り戻した「僕」が、置かれている環境に驚いたりはしないだろうか。自分で自分に気を遣うなんて馬鹿みたいだが、そんなことを考えていた。
両親と話をしていても、心苦しそうにする顔を見ると、かえってつらくなる。いつも無理をするな、と言ってくれる。けれど何をしろ、と言ってはくれない。
僕の通う病院の待合室で、よく顔を合わせる女子がいた。本当かどうかは知らないが、中学の同級生だったという、菊池さんだ。そういえば、目を覚ましたときにも顔を見せに来てくれていたと思う。彼女は診察の時間を気にかけ、書類の書き方を手伝ってくれ、帰り道では自然に隣を歩いていた。
けれど不思議と、友情や恋愛感情などは彼女からは感じられない。幼馴染なり、親密な仲の異性なりであれば、なんとなく僕でも雰囲気で察せるような気がするが、そういった記憶も感覚もなかった。彼女とは、取り留めのない世間話をよくした。だから、彼女とは席が近くて話す程度の仲だったのだろう、と自分なりに納得していた。
「覚えてないと思うけど。あたし、佐伯くんに恩があるんだよね。」
そう言われたことがある。詳しい話はされなかった。僕も、無理に聞こうとはしなかった。
「そうなんだ。でも、覚えていない僕からすると、菊池さんの方だけが親切にしてくれてるって感覚だよ。」
そう返すと、困ったように彼女は笑っていた。
* * *
季節は春のころだっただろうか。この日も僕は病院で、菊池さんといた。いつ来ても同じ匂いのする、病院の待合室。
彼女が、ぽつりと話し始めた。中学のときの、高校受験の話だった。事故から目を覚ましたあと、なんとなく母からも聞かされた覚えがある話だ。
中学三年の冬、受験シーズンのさなかの話。高校受験の出願で、担任教師による電子申請が間に合わなかったこと。その人為的なミスで、数人の生徒が、受験資格そのものを失ったこと。
答案用紙すら配られないまま、受験は終わった扱いになったという。
「あたしも、そのひとりだった。」
そして……僕も、そうだった。
「担任は、いい先生だったよ。もちろん悪気はなかった。受け持った生徒たちからも慕われていた。でも、保護者への説明会で学校から話があったのは、翌年以降の対策だけ。あたしたちに、何かしてくれることはなかった。
なんか、あのとき人生にケチをつけられてから、あたしはずっと止まってしまっているままの気がする。」
説明を聞きながら、僕は不思議な感覚に包まれていた。大切な出来事のはずなのに、胸の底は波立たずに凪いでいる。悔しい、という感情が、どんなものだったのか思い出せない。
でも、菊池さんは立派だ。
介護系? というのだろうか。福祉の会社につとめて、日々働いて過ごしている。彼女がそれを選択できたことも。悔しさをバネに跳ねられたから、なのかもしれない。
「思い出せないんだよ。」
僕は正直に言った。
「悔しかったってこと自体は、頭ではわかるんだけど。それを、感じられない。」
自分はもう、別の人間として生きていくしかないのかもしれない。記憶が戻れば何か変わるのか。その記憶は、自分にとってそもそも必要なのか。それすらも、失われているから、わからない。
過去の自分が味わったはずの感情も、選ばれなかった進路も、白紙のまま。今の僕が、僕のすべてだ。
「もし、僕たちが以前に友達だったとしてもさ。」
そう前置きして、僕は続けた。
「もう、同じ関係には戻れないよね。前の僕と、今の僕は違うから。」
菊池さんは、横目でこちらを見て、少し考えるように黙ってから、うなずいた。
「うん。前の佐伯くんとは、また違う人格なんだと思う。」
その言葉に、僕はなぜか安心した。
名前を呼ばれ、検査は決まった時間で何ごともなく終わった。まるで、予定調和のような定型の儀式。そして僕はいつものように、菊池さんと並んで廊下を歩く。
そのときだった。
待合スペースの椅子に腰かけていた老人が、立ち上がろうとした瞬間、体勢を崩した。杖が床に滑る。
考えるより先に、身体が動いていた。数歩で駆け寄り、老人の腕を支える。転倒する前に、その人の体勢を整えた。
動いてから「あ」と思った。杖は地面に落ち、その音はまだ廊下に響いて残っていた。
しばらく、無音の時間があった気がする。感情が何か頭を巡った気もするが、きちんと表には出てこなかった。
「あの。大丈夫ですか。」
そう、声をかけただけだった。
老人に礼を言われ、軽く会釈をして、元の場所へ戻る。そのとき、ふと振り返ると、菊池さんが立ち尽くしていた。
目に、涙が浮かんでいる。
「……どうしたの?」
僕が聞くと、彼女は慌てて首を振った。はっと息を吸う音が聞こえた気がした。
「なんでもない……。」
それ以上、なにも語らなかった。僕には、その涙の理由もわからない。ただ、行こう、と声をかけただけだった。
* * *
後日、菊池さんは言った。
「高認、受けようと思うんだ。」
高校卒業程度認定試験。彼女にはすでに職があったが、それでも、学ぶ道を閉じたくないのだという。
僕は、その言葉を聞いて、胸の奥がことりと動くのを感じた。
「ふうん。僕も……やってみようかな。」
事故から、丸三年が経つ冬に、その試験がある。白紙だった数年間。まだ僕のところには、なにも書かれていないままだ。
書店で、参考書を手に取る瞬間。なぜか菊池さんのあの日の涙を思い出し、その意味を考えてみた。彼女は僕の方を見ていたけれど、その向こうで、遠くに何かを見つめていたのだろうか。
うまく言えないけど。僕も、立ち止まっているだけではだめな気がしていた。
* * *
試験当日の朝は、寒かった。
母は僕の出かけ際に「車に気をつけて」と何度も言った。僕はいつも通り「心配しないで」と答えておいた。
試験会場に到着する。その教室へ入ったのは、僕が最後だった。周りには、年上の人、年下の人、いろんな人がいる。
すでに、答案用紙は机の上に配られていた。白い紙が、整然と並んでいる。
席に着いて、しばらくしてから。試験官の声が響く。
「はじめ。」
一斉に、紙が裏返される音がした。鉛筆を握り込む手に、力が入る。次の瞬間、僕の鉛筆の先は、紙の上を滑り始めていた。
※以下の企画に参加させていただきました。
※以下は関連作品になります。
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