世界の音の続く方【創作】
山あいの細い道を、男は一人で歩いていた。舗装は途中で途切れ、苔むした石段に変わる。落葉を踏むたび、世界がかすかに軋んだ。
風が木々を揺らす音、川が遠くを走る音。そのどれもが、日々の喧騒とは別の、やさしい雑音だった。
平日の昼間で、人はほとんどいない。人混みを嫌う男にとってはちょうどよかった。
──白雲の滝。
麓の町ではほとんど語られない、ひっそりとした名瀑だ。
古びた冊子が、案内板の近くに寂しげに置かれている。「水のきれいな日本の滝100選」。それが何年前からあるのかは、わからなかった。
少し時間を置いても、まだ息苦しさが消えない。男は額の汗を腕で雑に拭った。
男がここを訪れるのは、今日で三度目。誰にも告げずに来る。彼女が最後に選んだ場所だから。
滝に近づくにつれ、音は膨らみ、次第に他のすべての音を押し流していく。やがて、轟音に包まれた祠が見え、その前の木箱に、例の「滝ノート」が置かれていた。
男はページをめくる。
季節ごとの落書き、旅人の短い感想、謎の俳句。
前に来たときから、少し内容が更新されている。このノートのページには間もなく余白がなくなる。
そして──。
いつも見る、このページ。
『このノートを拾った人がいたら、あの人に伝えてください。
私は、もう滝の音の中にいます……。』
あの日と同じ、少しゆがんだ筆跡。滲んだ文字をなぞる指が震えていた。
彼女はいつも言っていた。
「世界が、うるさいの。」
「人の声も、期待も、正しさも、全部……耳の奥まで流れ込んでくる。」
「少しでいい、静かにして……。」
ある日のカフェで、ふと店内がざわめいたとき、彼女は両耳を押さえ、泣き出しそうな顔でつぶやいた。
気まずそうにストローをいじっていた、指先。あのとき触れられなかった自分の手の温度を、今でも覚えている。
「誰も悪くないのに、音が尖って聞こえる。なんでだろう、頭が痛い。」
そばでは、水の落ちる音が、続いている。
──それでも彼女は、滝の音だけは好きだった。
「ねぇ、あの音だけは、責めてこないでしょ。ただ落ちて、ただ消えていくだけ。やさしい。」
弱さを見せていたのかもしれない。けれど同時に、誰よりも繊細に世界を感じていた。自分の中を流れる音と、周りから聞こえてくる音の「ズレ」に、思いわずらっていた。
分かったつもりになっていた。彼女には自分に近い部分があると、男はそう思っていた。でも、きっと彼女の「ズレ」は、もう二度と重なることがないくらい、大きく広がっていた。
男はペンを握る。何度か書いては消し、ようやく言葉を置いた。彼女の筆跡の近くに空白を見つけ、少し強引に「自分」を割り込ませるように。
『ずっと、探していました。』
ノートを閉じ、滝の前に立つ。白い水しぶきが頬を濡らす。男が手にかけた転落防止柵が、こすれるように鳴いた。目を閉じると、音の底で誰かが呼んだ気がした。
ふと、一瞬だけ、そこに彼女の姿があった。水煙の向こう、かつて肩を寄せ合った日と変わらぬ表情で。
同じ孤独を抱え、互いの手にしがみつくことでしか立っていられなかった、あの頃のまま……。
男は手を伸ばす。言葉にならない願いが、喉で震えた。
だが彼女は、そっと首を振る。涙の代わりに、滝の飛沫が頬を滑る。次の瞬間、幻は音に溶けて消えた。
しばらくの間、滝の音だけが男の耳を通り抜けていく。
あのノートの、最後の言葉。
『……私がいなくても、世界は続く。あなたも続く。』
それは、残していく痛みではなく、「生きていい」という、不器用な祈りだったのかもしれない。
──あの人は、自分を消してまで、私の行き場を残していた。気づくのに、こんなに時間がかかった。彼女は誰を責めることもなく、ただ落ちて、ただ消えていっただけだった。
滝の音は、ゆっくりと男を包む。静かに、やさしく。
滝つぼから立ちのぼる湿った空気は、苔の青い匂いと土の匂いを含んでいる。胸いっぱいに吸いこむと、不思議と息苦しさがなくなっていった。
そして男は、音に押し返されるように……そっと一歩、後ろへ下がった。
帰り道は、まだ遠い。それでも、その足取りはわずかに軽かった。背中で、滝の音が遠ざかっていく。
男は、世界の音を追いかけるように、ゆっくりと歩みを進めた。
ほんの少し触れられた、彼女の気持ちを抱きしめながら。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。