台所と本音【創作】
加奈はひとり、台所に立っていた。味噌汁の香りが湯気とともに静かに立ちのぼる。家の中はまだ静かで、夫も娘も寝ている。
日曜の朝、まだ陽が部屋の隅に届く前。
窓の外では、隣家の庭に干された洗濯物が風に揺れていた。
カップにお湯を注ぎながら、ふと手を止めた。
「なんで、私はここにいるんだろう?」
心の中にふと浮かんだその問いに、自分でも驚いた。
誰に頼まれたわけでもない。早起きして、家族のごはんを作って。
それが「当たり前」になってから、もう十数年が経っていた。
結婚前、加奈は少女漫画雑誌の編集者として働いていた。
好きな仕事だった。
遅くまで企画を詰め、作家と夜通し原稿のやりとりをした。
でも、子どもができてからは少しずつフェードアウトして、気づけば専業主婦になっていた。
仕事を続けるかどうかで夫と話し合った夜のことを、今でもたまに思い出す。
「家のことに専念してくれたら、俺がしっかり支えるから。」
そう言われて、反対する理由はなかった。むしろ、安心もした。
でも。
「じゃあ、そうするね」と答えたあとで、
心のどこかがそっと沈んだのも、確かに記憶していた。
「おはよう。」
背後から声がして、夫の康介が眠そうに現れた。
「早いね。まだ寝てたらよかったのに。」
「うん。でも、何となく目が覚めた。」
康介はコーヒーを自分で入れながら、加奈の横に立った。いつもなら、ここで何気ない会話が始まる。天気のこと、子どもの学校のこと、今日の予定。
でも今日は、違った。
「ねえ、康介。私、また仕事したいなって思ってるの。」
コーヒーを注ぎながら、彼の手が一瞬止まった。
「……そっか。」
それだけだった。
返事がないわけじゃない。でも賛成でも反対でもなく、ただの相づちのような言葉。
それでも加奈は、不思議と胸が軽くなっていた。
本音を口にしたのは、たぶん、数年ぶりだ。
包丁がまな板を打つ音に紛れて、フライパンから立ちのぼる湯気の向こうで、ようやくこぼれ出た言葉だった。
台所は、ただの家事の場じゃない。
ときに、本音がやっと呼吸できる場所になる。
康介がゆっくりとマグカップを持ち上げた。
「何か手伝えること、ある?」
加奈は、少しだけ笑った。
「じゃあ、味噌汁、陽菜のぶんもよそってくれる?」
「了解。」
そのやりとりの中に、ほんの少しだけ、未来の気配が溶け込んでいた。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。