猫と懐中時計【創作】
古い時計屋の店先で、黒猫が懐中時計をじっと見つめていた。ガラス越しに揺れる秒針に、金色の瞳が吸い込まれるように釘づけになっている。
夜の静けさの中、店内に針の微かな音だけが響いていた。
店主の老人は微笑み、そっと戸を開けて声をかけた。
「気になるのかい?」
黒猫はするりと入り込み、棚に並んだ時計の前で座り込むと、爪先で古びた懐中時計をカリカリと引っ搔いた。まるで「これを直せ」とでも言うかのように。
その時計は、若き日の店主が恋人に贈ったものだった。やがて恋人は遠くへ旅立ち、戻らなかった。止まった時計だけが、長い歳月を語っていた。
猫は机の上に飛び乗り、時計の横で丸くなる。
その懐中時計は、長年巻かれることもなく眠っていたせいで、ゼンマイが緩み、針が止まっていた。埃に覆われた金属の文字盤は、かつて贈った日から刻まれた傷や小さな錆の跡をうっすらと見せている。
老人は苦笑しつつ、工具を手に取った。
長い間、その時計は手に触れず棚に置いていた。
壊れていながらも──いや、壊れたままだからこそ、守られていた時間があったかもしれない。
だが、心のどこかでは、思い出を現実に戻さねばならないことは知っていた。ほんの小さな黒い影が、今日、わずかに背中を押しただけのことだ。
カチリ、と歯車を合わせる音。ゼンマイを慎重に巻き直すと、止まっていた針がゆっくりと動き出した。
チクタク。チクタク。
懐中時計の針が動き始めたとき、老人の胸の中にも、長い間止まっていた時間がゆっくりと流れ出すのを感じた。
若き日の笑い声、街角で交わした言葉、遠い日の約束──。
すべてが淡く光を帯びて蘇る。
目の前の時計が、過去を呼び戻したかのように。
「...…ありがとうよ。」
老人は小さくつぶやいた。
猫は目を細め、しばしその動きを見守る。時計の針の動きが面白くて眺めているだけのようにも見えた。やがて、そっと机から飛び降り、店の外へ消えていく。夜の闇に溶けるように、その姿を消した。
老人はしばらく時計を手に取り、静かに息をつく。
胸の奥に、温かさとともに、微かに残る不思議な感覚があった。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。