壊れる一点【創作】
ゆかりが既婚者とばかり付き合っては別れる理由を、私は最後まで理解できなかった。
彼女と仲は悪くなかったと思う。中学のころからの腐れ縁とでも言うのか。笑いあえることはしょっちゅうあった。放課後、どうでもいい話が長引いて、意味もなく寄り道を選んだこともあった。
親友、と呼べるような仲ではなかったと思う。向こうは私を軽く下に見ていたし、私も懐くほど心を許していなかった。ただ、私がやらない境界線をいとも簡単に踏み越えていける神経の太さには、見習うべきところがあったかもしれない。
だから私は、言葉にしてこなかった。
「やめた方がいいよ」
「面倒になったらまずいんじゃない」
聞き分けのいいタイプであれば、言ったかもしれない。けれど、彼女は悪びれることなどほとんどない。わざわざ忠告する義務もないし、そんな立場でもなかった。
過去に一度、彼女の「嘘」に口裏を合わせたことがある。電話口で、私は「ゆかりは今、私の部屋にいます」と言った。受話器の向こうにいたのは、彼女の夫だった。
関わり合いを絶つ理由がなかったから、今までは一緒にいた。でも、このころから、「あ、そろそろかもな」と思い始めるようになっていた。
私にとってのゆかりは、いつしか「壊れる一点を知っていながら、あえて触れないでいるもの」になっていった。
* * *
春の気配が近付いているとはいえ、風が吹けば肌寒く感じる。身をこごめてその扉を押し開けると、いらっしゃいませの言葉が耳に届いた。義理立てしたかのような覇気のない声だが、どうでもいい。店内の少し奥へ行くと、ゆかりは私の到着に気づき、スマホから顔をあげた。
「また、ここなんだ。」
その駅前のカフェを、彼女は好んで愛用していた。そして座るのはいつも、往来の景色の見える窓際の席。私は、気に入ったメニューがあるわけでもない。毎回、ホットのミルクティーを頼む。これもまた、冷やかしではないというお義理染みた注文だった。
「ね、彼の話なんだけどさ。」
ゆかりの話が始まる。私はもっぱら「聞き役」だ。これまで彼女と話していて、楽しい時間はもちろんあったが、最近は話題を振ることも億劫になってきていた。
いつものやつ。奥さんがいる男との話。そしてときどき、別の男との話。同じ世界を生きてきたとは思えないほど、倫理感がまるで違う。
私は生返事で相槌を打つ。私の席からは、客のトレイの返却口の状況がよく見えた。これ以上置けないくらいに飲み食いしたあとの食器が密集している。次に誰かが押せば、崩れてしまうくらいに。
店員は遠くでおしゃべりに夢中だ。客の目につく場所にあるのだから、余裕があるなら片づければいいのに。
「ね、聞いてる?」
「聞いてるよ。」
「あんたももっと、喋ればいいのに。」
不服そうにゆかりは言った。
いいんだよ、私は。どうせ頭の中で整理して言葉を組み立てても、会話の主導権はよきところで相手に移る。私の話題は、彼女にとっては「自分の話題を引っ張り出すきっかけ」でしかなかった。ストーリーをくみ上げるのは彼女自身であり、私はついででなければならない。
いつもであれば、当たり障りのない応対をして、駅で解散という流れ。しかしその日は、少し様相が違った。ゆかりの愚痴に込める熱が数度高かったからか、最近私がよく眠れていないせいか。あるいは複合的な要因だったかもしれない。
テーブルの上の紅茶はすでに冷え切って、途中で飲むのはやめてしまっていた。
* * *
「結局私って、男運がないと思うの。」
そのセリフがきっかけだったような気もする。私は渇きかかったおしぼりで、テーブルにできたカップの輪染みを吹いていた。別に、怒髪天を衝いたというわけでもない。態度はきっと冷ややかで、そこに熱はなかったように思う。
「運じゃない。……人を見る目がないだけでしょ。」
ゆかりの眉がぴくりと動く。
「何よ。あんたには、あるっての。」
「そんなこと言ってない。被害者ヅラしてるけど、自分で勝手に相応の結果を招いてるだけでしょ、って。」
最後の方は早口になって、少し声がかすれた。彼女の顔がみるみるうちに醜く歪んでいく。私ごときに、そんな風に言われるとは思っていなかったのかもしれない。
こっちだって、何度も同じ言葉を耳にしてきた。このままでは、壊れてしまうと思った。その衝動を表に出すことで、他のものを壊すことになっても。もう、どうでもいい。
「ふん。」
ゆかりは表情を落ち着かせて、青筋の気配をやり過ごしていた。そして、吐き捨てるように、言う。
「私が、悪いってのね。」
「知らない。彼の、奥さんにでも聞けば。」
私がそう言うと、ゆかりは、カップを片手に持ったまま。無表情で、視線を落としていた。
そうして、また「ふん」とだけ言った。お店に入ってから、店内BGMが何曲入れ替わっただろう。暖房のせいか、周りの空気はどこか淀んでいた。
* * *
連絡の回数は減った。私は、もともとこちらからあまり連絡しないタイプだった。来れば返すけれど、用もなく連続してメッセージは送らない。
普段の私なら、喧嘩をしたり気まずくなったりすれば、「どうして、あんなことを言ったんだろう」「あの言葉、傷つけちゃったかな」と寝る前にうじうじと悩むのが常だった。けれど、今回はそんな罪悪感や後悔は、私の生活に干渉してこなかった。
どうしてだろう。
準備をして、言うことを構えていたから? それとも言ったときには、もう関係が壊れていたからだろうか?
ゆかりからすれば、長年の友人から理不尽にひどいことを言われた、というストーリーになっていることだろう。
表面上でも、大事にしてくれる相手がいるのだったら。自分の作った残酷な構造の中で、心ゆくまで甘やかしてもらえばいい。
嘘を言ったあの日のことを、私は今でも夢に見る。
ゆかりの夫、そして逢瀬の相手の妻の存在が同時に頭をよぎり、後味の悪さだけが今もなお残っている。淀んだヘドロが、いつまで経っても心の中から消えてくれない。あれからずっと、私は歪んでは、淀み続けてきた。
その駅前のカフェには、行くことはなくなった。ガラス席の前の道を通っても、ゆかりらしき人影を見ることもない。
私も馬鹿だった。見る目がなかった。あんな友人に、心を惑わされる時間を選んで生きてきたこと。一点に力がかかり続ければ、どんなものでも、いずれ壊れる。
爆発せずに、沈殿していたものを沈殿させたまま外に出せたのは、きっと幸いだった。
私は、コンビニでホットのミルクティーを買い、歩きながら口にする。値段相応の味で、その甘さは、思ったよりも長く口に残った。
きっとこの甘さに、私はこれから慣れていく。
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