チョコクッキーが焼けるころ【創作】
本当に、なぜそんな気になったのか自分でもわからない。
部屋を片付けていたら、棚の奥で埃をかぶった小さなレシピ帳が、ぱた、と目の前に落ちてきた。ページをめくると、見覚えのある文字でチョコチップクッキーの分量が書かれている。いつも祖母が作っていたものだろうか。このクッキーの味を、僕は知らない。
けれど、不思議と手が自然に動いてページを押さえていた。
ふと冷蔵庫を開けると、母が前に特売で買ってきたバターやチョコ、薄力粉や卵がちょうど揃っている。母は、お菓子づくりなんてしないはずなのに。
──作ってみようかな。暇だし。スナック菓子のストックももうないし。
心の中で声に出してみると、なんだか自分でも不思議な気分になる。家に誰もいないことも、僕を動かした要因のひとつだったと思う。家族の目がなければ、気兼ねなくキッチンを使うことができる。
そしてこの日はいつもより風が強く、春の始まりの時期にしては寒かった。休日は普段外へ出て過ごす僕だが、家で何かをする珍しい日となった。
さらに、材料がそろっていること。偶然にも手元に落ちてきたレシピ帳。まるでばあちゃんが「僕に作ってほしい」と言っているみたいだった。小さい頃、肩をもんであげたり、背中をさすってあげたりすると、顔をしわくちゃにして喜んでくれた祖母の顔がふと浮かんだ。
言葉遣いが穏やかで、辛いものが苦手。そして、花と雪が好きだった。そんなばあちゃんだったことだけは、確かに僕の記憶に残っていた。
調理実習で使ったエプロンをひっぱり出し、作業台の上に材料を並べる。砂糖とバターを混ぜて、卵を加える。生地はどんどん柔らかくなっていった。
一回目は完全に失敗だった。生地がべたべたで手にくっつき、丸めるどころではない。少し固めようと、粉を足して足掻いてみたが、今度は生地がパサパサになってしまった。一応オーブンには入れたものの、焼きあがったクッキーは形がいびつで、焦げの匂いが漂う。僕は思わず眉をひそめた。
──どうして、うまくいかないんだ……。
悔しさで胸がざわつく。これではきっと、祖母の思い出の味にはほど遠いのだろう。
二回目は、生地をほんのり柔らかめにして丸めた。そしてオーブンに入れる前、チョコチップの配置にも気をつけた。生地は柔らかすぎるとだめ。混ぜ込んだチョコチップは、丸めるときに生地の外側へ向かうように位置が変わる。どちらも、さっきの失敗で学んだことだ。
だが、焼きあがったのは思ったより平たいクッキー。綺麗に並べたチョコチップの一部は溶けて生地に沈み、思い描いたようなふっくら感が出なかった。香りはよいが、表面の焦げ色が少し強く、なんだか悔しい。
「ばあちゃんのはきっと、こんな失敗作じゃなかったんだろうな……。」
つい独り言を言ってしまう。連続での失敗に、少し心が折れかけていた。昼食にと、カップ麺に入れるためのお湯を沸かす。こんなことなら、お菓子なんて作らずに、僕でも失敗しないカレーでも作っておけばよかったかな。
食べ終わったカップ麺のそばでテーブルに肘をつき、肩を落とす僕の視界の端では、残っている材料が無言のままただそこにいた。なぜかそれを見て、このまま終わるのではちょっぴり悲しい気がした。
三回目、最後の挑戦だ。今日はもうたっぷり三時間はクッキーのことを考えていた。何度も見返したレシピの分量は頭の中に入っている。さっきみたいな失敗も、もうしない。
生地を慎重に混ぜ、丸め、オーブンに入れた。今度は生地の柔らかさも温度も、感覚でちょうどよくなった。
生地は焼くと思いのほか横に広がる。さっき見落としていたその点もクリアし、オーブンに入れる前にクッキーの配置も目視で念入りに確認した。
焼き上がるまでの時間、時計の針をじっと見ながら、息を詰めて待つ。香ばしい匂いが漂い、オーブンを開けた瞬間、目の前に広がったのは、表面にチョコチップがきれいに並んだ、焼きたてのクッキー。買ってきたものと比べればもちろん形はいびつだけれど、少し焦げた端が香ばしく、大き目のサイズに焼きあがっていた。僕の目には、十分上手くできた仕上がりだ。
けれど、味は本当に祖母と同じかはわからない。食べたことがないから。手に取ると、まだ少し温かいクッキーの感触が手に伝わる。すとんと胸に落ちる感覚はまだないけれど、達成感のようなものが身体の底から広がっていた。
オーブンの余熱がまだ部屋に残るころ。玄関のベルが鳴った。訪れたのはたまたま立ち寄った親戚だった。父ちゃんのお姉さんと、その旦那さん。
この日は夕方になるとさらに冷え込んだらしく、開いた玄関からは冬の名残のような冷たい空気がびゅっと舞い込んできた。
うちの両親はまだ留守だった。居間で、親戚のふたりと他愛ない話をしていると、玄関のベルがもう一度鳴った。
今度は母方のいとこと、その父母。たまたまこの近くまで買い物に来て、ちょっと寄ってみようか、という話になったらしい。
さらに、少し遅れて両親も帰ってきた。母は「今日は仕事が早く終わったの」と笑い、父は「なんだ、珍しくみんないるな」と驚いた顔をしている。
気づけば、部屋にはまるで小さな法事か祝い事のように、家族と親戚がずらりと揃っていた。
「せっかくみんな集まったし、何か出すものあったかしら。お茶淹れるけど、お菓子は……」
母がキッチンへ向かうと、僕は午前中から向き合っていたお菓子の存在を思い出した。
「あ、クッキーある……。食べていいよ。」
母が大皿に乗せられたクッキーを持ってきて、目を丸くして言った。
「あんたこれ……作ったの? ばあちゃんが昔、よく作ってくれたチョコチップクッキーにそっくりよ。よく、こんなの作れたわね。」
皿が置かれると、ふわりとチョコの香りが辺りに漂う。そして、並べられたクッキーを数えてみると──驚いたことに、人数とぴったり同じ枚数だった。僕は少しだけ息をのんだ。
父が、ふと思い出したように言った。
「そういえば、さっき帰ってくるとき、春になるってのに、雪がちらついてたよ。……あの人、雪が好きだったよな。」
外を見ると、春だというのに白い雪がひらひらと舞っていた。
「ばあちゃん、みんなに『私を忘れないで』って言ってるのかな。」
誰かがぽつりと言う。その言葉を、誰も否定しなかった。
雪とクッキーの香りと、家族の笑顔。そんな静かな奇跡の中に、ばあちゃんがほんの少しだけ混ざっている気がした。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。