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十七人の集合写真【第七話 往復】


第七話 往復


机の上に置かれたフィルムカメラを、アルは何度となく手に取っていた。祖父から渡された、古いカメラ。金属の冷たい重みを掌に感じるたび、エルネアという遠い国の名が、少しだけ現実味を増した。

だが今、その現実へ辿り着くために必要なのは夢ではなく、紙だった。

左の束は、日本の大学へ送る書類だ。逢坂から何度も赤字で修正された箇所に、付箋が貼られている。

卒業見込み証明書。レルメドール国の担当教員の署名入りの推薦状。パスポートの写し。研究計画書。履歴書。

これは、受け入れ大学へ送るものだった。研究科で審査され、正式な受入へと繋がる。

右の束は、自国政府へ提出する書類。省庁印の押された薄茶色の封筒が重なっている。

英語の資格証明を含む、最終推薦書類。家族証明。兵役猶予証明。健康診断書。身分証明。

こちらは、国費留学生として送り出すための最終審査書類だった。

その真ん中に、祖父から渡された古いカメラがあった。それだけが、どちらにも属していない顔で置かれていた。

アルは、その三つを見下ろした。

未来へ渡す紙。国へ差し出す紙。そして、残すためのもの。どれも、失くせないと思った。

書類の束は、どちらか片方だけでは無価値だった。日本が受け入れても、自国が認めなければ渡航できない。自国が認めても、日本が受け入れなければ居場所がない。

ふたつの国のあいだに。自分ひとりの人生が挟まれているようだった。

これでもし、一枚でも送付先を間違えてしまうようなことがあれば。

日本の大学宛の封筒に兵役猶予証明を入れても意味がないし、大使館宛に研究計画書を送っても審査は進まない。

間違えれば数週間が消え、締切を越える。そうなれば、終わり。

書類そのものだけでなく、書かれている文字の扱いも同じだ。

書類には、一度の間違いで「全部が止まる」項目があった。名前の綴りに、日付、旅券番号。どれも、ひとつでも狂えば差し戻される。まるでそれが、試験の禁忌肢のように思えた。

慎重に、慎重を重ねた。アルは、手の皺がなくなるくらい、紙の書類をめくった。印刷物を見比べ、指差し確認し、データ上のものは校正チェックのツールにかけた。

しかし、ついに恐れていたことが起きた。

* * *

日本から届いたメールを見て、アルは息を止めた。

受入先大学の研究科名の英訳が間違っている。

自分ではない。公用語からの英訳には、翻訳センターを通すことになっている。そのセンター側のミスだった。

アルは書類を見たまま、親指と人差し指で眉間を強く押さえた。それから短く息を吐く。日本の研究室側にも落ち度はない。受入内諾書には、研究科の英訳が正確に記されていたからだ。

いずれにせよ、このままでは研究科事務で差し戻される。その先の留学課まで届かない。

連絡は、事務担当の逢坂からだった。訂正内容がひと目でわかるよう、赤字で示されていた。

「可能な限り急ぎ、差し替えて送っていただけますでしょうか。」

それだけの英文だったが、その文面から相手も必死で動いてくれていることが伝わった。

アルはすぐさま翻訳センターへ向かった。これで、何度目になるかわからない。夢を叶えるには、紙だけではなく、どうやら体力も必要らしい。

走り出して数分で、すぐにシャツは背中に張りついた。

ざっざっと、地面から音が素早く鳴る。その先にある場所へ、流れる音。自分には、向かう先がある。たどり着くために、向かう先が。

* * *

近頃、外では風に混じって不穏な噂が流れていた。国境付近で武装衝突。資源地帯での部隊移動。通信規制の可能性。

ネットニュースは断片的な情報しか伝えない。しかし誰も、もう「ただの噂」とは思っていなかった。

それが、知らないどこかや、遠い場所で起こっている問題ではないことを、口にしないだけで、みなが理解していた。

アルはこの日も、書類を抱えて走っていた。翻訳が訂正された書類を含めた、自国への郵便物を届けるためだ。

止まらなかった。止まりたくなかった。ここで止まれば、全部止まる気がした。

日本への書類は、先日締切ぎりぎりでなんとか発送できた。あとは、レルメドール側での提出が完了すれば。

英語試験の証明書は、すでに取得済みだった。この書類の中に、入っている。高額な費用を工面してくれた母に応えるためにも、手を抜きたくなかった。

英語のスコアシートは、満点に近かった。アルは研究と書類集めの傍ら、時間を縫って予習した。普段から英語で書かれた学術論文を多数読んではいたものの、試験対策をしていなければここまでの結果は出せなかっただろう。

母とのやりとりを、アルは思い出していた。

試験後の夜のことだった。英語試験の受験料を少しでも返したいと申し出たアルを、母は止めた。

「それよりあなた、エルネアでこれからお世話になる方へ、何か用意したの。」

アルは母の瞳をじっと見つめ、歯を食いしばった。

自分は、兵役も免除され。その代わりに、母は国外移動まで制限されて。息子の夢に必要な資格のために、こつこつと貯めていた蓄えさえ崩させたというのに。

それでも、手元の少ない資金さえ、自分のために使うよう母は促す。

やるせない気持ちがあった。今さら、日本へ行かないわけにはいかない。アルには、夢を叶える以外、母に報いる術がなかった。

そのとき、風が吹いた。走るアルの目に、あおられた砂粒が飛び込む。でも、足は止めない。薄目でこらえて、書類を抱え、なお走った。

一瞬、ぽたり、とひと粒の丸い染みを地面に落とした。走る音を連れて、アルは中央郵便局への道を駆けた。

* * *

日本の研究室から受領確認のメールが届いたのは、数日後だった。

逢坂からだった。

「アルシェド・ラミザフ様。留学課および研究科事務と連携し、お送りいただいた必要書類はすべて確認済みです。追加の連絡があれば、またご案内します。」

その一文を、アルは何度も読み返した。

これから向かう予定の国で、自分の名前を覚えてくれている人がいる。自分のフルネームをおそらく何度も入力し、何度も確認し、ずっと待ってくれている人がいる。

それが、不思議なくらい心強かった。

あとは結果を待つだけだった。もしかすると、ようやく自分は出発地点に立てるかもしれない。

アルは、机の横に置いたカメラを見た。祖父と話した、残すための未来の写真を、収める機会が訪れるかもしれない。

行けるなら。ちゃんと、何かを持っていこうと思った。

土産だ。教授に。研究室のみんなに。そして、あの事務スタッフにも。

ラグマットがいいかもしれない。次の市で、少し良いのを仕入れてみよう。猫の模様が入った、少し高いやつ。

メールの文面はいつも固かったのに、オンライン越しに見たあの人はどこかやわらかかった。たぶん、猫が好きそうな気がする。

根拠はなかった。でも、そういう気がした。


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財布野紐ゆるみ 書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。