見出し画像

とん、とん。【創作】

まぶたがまだくっついていたがる、まどろみの時。うつらうつらとしていると、小さく、鼻にかかった声が聞こえた気がしてはっとする。

「はいはい……起きたのね。」

カーテンを揺らす風が、返事のように擦れる。

テーブルの上には、哺乳瓶に白い液体が入っている。昨日作ったミルク。まだ温かい気さえした。

母は肩で息をしながら、腕の中の子の顔を覗き込んだ。

「おはよう。今日もいい子ね……」

そっと頭を撫でる。指の下で、髪はやわらかく、綺麗に整っている。

指を差し出したときの、柔らかい手が私の指を包む感覚が愛おしい。この子は、ママがそばにいれば泣かない。偉い子だ……。

光のやわらぐ時間、彼女はキッチンに立つ。パート用の服は洗濯物の山に埋まっている。洗剤の残り香が、ふわりと漂う。

SNSを開くと、ママ友たちの「手作りおやつ」や「お出かけ」写真。
笑顔。小さな手。ケーキ。祝われる成長。

……その中で、スクロールする手が止まる。

「#幸せが止まらない」

画面が滲む。幸せが止まらないなら、私のは、なんだろう。

止まったままの、時間?

夫はいない。親の協力も得られない。
取り残された世界で、救いを見つけて生きていくしかない。

「……行こっか。」

赤ちゃん用の抱っこひもを手に取る。
けれど肩にかける動作が、指先でふと止まる。

外は寒いし、人混みもあるし、仕事だし……。

ね、置いていくほうがいいよね?

目の前の小さな顔は、微笑まない。
それを見つめながら、母はそっとベビーベッドに寝かせる。

ベッドは、きれいに整えてある。
シーツにも皺ひとつない。

「いい子でね。ママすぐ帰るから。」

声が震えるのを、ごまかすみたいに笑う。
その笑いは、頬の筋肉だけで作った。

ドアを閉めたあと、足が重い。
靴ひもがうまく結べなくて、手が震えた。


すぐ近所の、スーパーでのパート。レジスクリーン越しに見た赤ん坊が、ぐずっている。それでも母親は、嬉しそうに抱きしめていた。

「いい子ね、泣いてもいいのよ。」

その声に、胸がぎゅっと掴まれる。
いいな。泣けるのも。泣いても、抱いてもらえるのも。

客の顔を見ないように、機械的に商品のスキャンを続けた。


光の落ちた頃。帰宅すると、部屋は朝と同じ温度のままだ。ベビーベッドに駆け寄る。

「ただいま。」

丸い頬。まっすぐなまつげ。
笑わない。でも、そこにいる。

抱き上げる。
軽い。いつだって、軽い。

「ほら、今日はね、ママね……」

声をかけながら、揺らす。腕の中で、小さな体が、沈む。柔らかい音だけがする。そのやわらかさに、母の目が細くなる。

「いい子ね。ずっとママと一緒に生きてくれるよね。」

とん、とん。

寝かしつけるように、背中を叩く。
笑ってほしい。でも、笑わなくても、ここにいてほしい。

ピンポーン。

インターホンが鳴る。
役所の見守り支援だ。手紙が入っていたのを思い出す。近所の噂もあったのだろう。

「今日も、泣き声がしていました」って。

そりゃあ、泣くことくらいあるわよ。
私の子は、「ここ」にいるんだもの。

先の手紙は、すきま風に持ち上げられて、ごみ箱へ落ちていった。
母は息をつめて、そっと。そっと、カーテンの隙間を閉じる。

リビングの机には、チラシ。

「リアルベビードール。あなたの腕に、永遠のぬくもりを」

SNSの広告みたいに、ふいに届いた紙。

母は視線をそらし、抱いている子の頬に触れる。柔らかく、形は崩れない。

ふと、隣の棚に目が向く。

開いたままの育児手帳。書かれた名前。日付。
生後八ヶ月で止まった記録。

空っぽのベビーベッドの、もうひとつ向こう側。そこには、仏壇。白い花。ちいさな写真。

視線が戻る。
腕の中の「子」は、笑わない。
ずっと、笑わない。

母の頬の筋肉も、もう持ち上がってはいなかった。

「……笑いなさいよ。」

声はやさしく、祈りのようで、呪いみたいだった。

静かな部屋に、赤ん坊の泣き声はない。
ただ、揺れるリビングの灯りが、ゆっくりと沈んでいく。

とん、とん。

背中を叩くリズムは、一定。変わらない表情のまま、頬には冷たいものが伝う。

とん、とん。
とん、とん。


いいなと思ったら応援しよう!

財布野紐ゆるみ 書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。