甘いたまごやき【創作】
「もう、一緒にいる意味を感じられなくなった。」
そう言って、彼はいなくなった。
わたしはそのとき、虚勢を張って、悲しみと怒りでふるえながら「勝手にすれば」とだけ吐き捨てた。
冷蔵庫を開けると、たまごのパックが目に入る。
──ひとりじゃ、食べきれないじゃん。
なくなるたびに買い足していたいつもの癖で、別れた夜も、つい十個入りをかごに入れてしまっていた。
後悔の念が押し寄せたって、口にした言葉は胸から消えない。
冷蔵庫の扉をそっと閉め、貼りっぱなしのメモを一枚はがす。
「たまご」「豆乳」「ねぎ」「りんごジュース」
ふたり分の食卓の名残が、まだ紙にしがみついていた。
さびしい、さびしいと言って、彼の時間を奪ったのかもしれない。
私は、苦手な家事に甘えたり、彼のお財布に甘えたり。いつしか、与えられることが当たり前になっていた。
ほとんど眠れなかったけど、おなかは空いていた。
パンをトースターに入れ、卵をふたつ取り出す。
彼がいつも褒めてくれていた、私の甘いたまごやき。
料理はそんなに得意じゃないけど、美味しい美味しいといって、残さず食べてくれた。
その声が耳に残っている。作り甲斐があった。幸せな時間だった。
カチャカチャと、卵液が箸にかきまぜられる音だけが室内に寂しく響いている。温まったフライパンにジュっと流す。湯気とともに、昨日まであった温度が、ぼやけて部屋に浮かんでくる。
小さいフライパンを買い足すかどうかでも、ちょっともめたっけ。思えば、ふたりの間で何かあったときは、いつも彼の方から折れてくれていた。
大きめの喧嘩をしたとき、翌朝彼から連絡をくれて仲直りできたことがあった。でも今朝は、何も連絡はない。
スマホが通知でふるえるたび、反射的に息を飲む。意味のない通知に、ため息が重なっていく。
今日は「いただきます」は心の中だけで言った。
まず、先に言ってくれる人がいないと、なんだかスイッチが入らなかった。笑顔になるのも、声を出すのも。反応できたのはきっと、相手がいたから。
いつも通りのはずのたまごやきは、黄身と白身がうまく混ざっていない。
マーブル状になっていても、少し不格好でも、味は同じ。甘いまま。
亡くなったおばあちゃんに焼き方をならった、私のたまごやき。
私の「たまごやき」の発音が変だと言って、楽しそうに笑ってくれていた彼の声。今でもキッチンに残っているような気がする。
──うん。おいしい。
でも、喉の奥で、どうしてもしょっぱい感覚が抜けない。
もう一度だけ。このたまごやきを、食べてほしかった。
後ろでカーテンがふくらんで、部屋に空気が流れる。
いつもの朝の気配が、私を日常へ連れ戻そうとする。
箸を置いた。
会社に「今日は休みます」とメールを入れる。
私は手の中のスマホをじっと見つめながら、震える人差し指で、タップする場所を探している。
手元のたまごやきの香りは、今もまだ、ほのかにあたたかかった。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。