見出し画像

秋のころには、もう【さよなら文芸部】

父方の祖父が亡くなった。病状は安定せず長らく入院しており、家族へは十分心の猶予を与えてくれていた。

「お前も忙しいだろうから、もし帰ってこれるなら」

葬儀の日付とともに父から届いたそのメッセージも、平熱の温度感だった。大学の学部生なのだから、忙しいわけもないのに。

山の多い地方の町。久しぶりの駅に、久しぶりの道。そして懐かしい匂いが、僕を迎えてくれた。まるで長年も離れていたかのように、郷愁が全身を包み込む感覚がある。

帰ってきたのは、もちろん法事のため。都合がつけば、地元の友人に連絡をとってみてもいいかもしれない。でも、僕の中で引っかかっていたのは別のことだった。

──あのお姉さんは、どうしているだろう。

* * *

秋のはじめだった。

はっきり覚えているわけではない。周りの風景や季節、体温など、情景や身体感覚は消えてしまっていた。もやがかかったように朧げで、思い出すたびに消えてしまわないかと不安になる、そんな記憶だった。

長い髪。そして、笑顔だけを鮮明に覚えていた。その顔をまっすぐ見ると、つい目をそらしてしまいたくなるけれど。千秋お姉さんは、今思えば、高校生くらいだったと思う。

「この花、好きなんだ。」

近所の家の前で一緒に見た、星型で、薄い紫色の花。たくさんじゃない。ほんの少しだけ、そこに咲いていた。千秋お姉さんは、花に指を近づけるけれど、触れそうになると手を止める。その仕草が、妙に印象的だった。

「どうして、好きなの。」

僕はそう聞いたと思う。彼女は少し考えて、上を向きながら言った。

「気づけば、もう枯れちゃってるところとか。」

意味はよくわからなかったけど、僕は答えが聞けたのがうれしかった。

別の日、僕は学校の図書室で調べて知った。あれは「キキョウ」という秋の花らしい。彼女の好きな花を、どうして調べようと思ったのか。当時の僕は、わからなかった。

上を向いて話す姿を思い返すと、彼女は背が高かったと思う。ということは、彼女は高校生くらいだったんだろう。そして話したあの日には、キキョウが咲いていた。だから、秋ごろだったんだろう。

千秋お姉さんとのことは、いつもあとから追いかけてくる。

けれど、僕が中学に上がったころ、彼女に会うことはなくなった。小学校のとき、転んだときに手を差し伸べてくれたり、泣いているところにお菓子をくれたりした思い出はある。だから、近所に住んでいたことは間違いない。

でも、気づけばいなくなっていた。

事情があって引っ越したのか。自ら選んで、遠くへ行ったのか。

わからないまま、もやもやと過ごしていた。そんな居心地の悪さを抱えたまま、僕は高校を卒業して、今は少し離れた大学へ通っている。

* * *

あまりかわり映えのしない田舎の通りでも、ぽつりぽつりとまばらにあるお店の一部は、かつてと違った様相を呈していた。

用水路の水は、昨日の雨で少し水かさが増している。前を通ったとき、「イノシシ注意」の看板を見かけた。

ふと、足を止める。こんな看板、昔からあっただろうか。

そういえば小さいころ、親や学校に、同じように注意を呼びかけられたことがあったかもしれない。ただ、実際にイノシシを見た記憶はなかった。

家に着き、玄関の門をくぐる。庭の前を通り抜けるとき、雨上がりの緑の匂いがした。覗いてみると、庭の片隅にキキョウの花が少し。うちにも、咲いていたんだな。

ここは、いつもと変わらない。温かく迎えてくれる親兄弟。昔から変わらない顔。

翌日の、実家の仏間での自宅葬は、つつがなく進行した。なれないネクタイと略喪服を、似合っているだのとからかわれながら、ムードは穏やかそのものだった。泣いている人はいない。焼香のお作法は、前の人のを真似すればいいだけ。

棺のふたは開いていて、祖父の顔が見えるようになっていた。まるで、寝ているように安らかだった。僕はそこで、妙な気分になった。

違和感。顔が見えたことか、それとも棺のふたが開いていたことか。感じた引っかかりが、いったい何に対してだったのか。わからなかった。

立ち上がってくる線香の煙で、なんとなく息苦しくなるころ。その儀式は、終了した。

* * *

違和感の正体が判明したのは、その少し後のことだった。家族と、少し豪華な夕食を前に、話をしていたとき。

向こうでの生活はどうだ。こっちでは近所でこんなことがあった。弟の受験がどうなってるか。そんなような、たわいもない会話。

そんな中で、自分では、タイミングをうかがったつもりだ。ずっと気になっていたことを切り出した。

「そういえば、千秋お姉さんはどうしてんの。」

しばしの、静寂が流れた。どこか困惑したような空気がその場に満ちる。母と父はばつが悪そうに顔を見合わせ、弟は特に話を聞いていないようだった。口を切ったのは、母だった。

「千秋ちゃんねえ。……亡くなったのよ。事故だった。」

えっ、と声が出かかった。それを飲み込んで、へえ、と何とか濁す。その後、父が母の言葉を引き継いだ。

「覚えとらんのも無理ない。お前が小さいころ、用水路でな。……夜にイノシシに追われて、自転車で……そこに落ちたんじゃないかって話だった。」

イノシシに。あの用水路で……?

「お葬式も、ご自宅でやったんだけどね。あんたも出たんだけど……千秋ちゃん、顔を怪我しちゃってたから、棺のふたは閉めたままでね。」

しんみりした調子で、母が言う。庭のキキョウを思い出した。千秋お姉さんは、亡くなっていたという。自分も、葬式に出ていたって。僕はちっとも覚えていなかった。

胸を刺す痛みがあった。何も言えない時間が気まずくて、僕は手元の麦茶を喉に流し込んだ。

千秋お姉さんとのことは、いつもあとから追いかけてくる。

* * *

次の日、僕は早々にひとり暮らしの家へ帰ることにした。地元の友達とは、誰とも予定が合わなかった。けれど、それはかえって都合がよかった。

父は、駅まで車を出そうかと言ってくれた。僕は、歩くからいいよと断った。ひとりで、帰りたかった。

用水路のそばを、どうせ通るから。「イノシシ注意」の看板の前で、僕は立ち止まった。

そこに、キキョウを取り出して一輪置く。自宅の庭を出るとき、こっそり摘んできたものだ。一番きれいに咲いているものを選んだ。

まだ枯れていなくて、よかった。秋の花なのに、秋が深まると、気がつけば終わってしまう花だから。

両親や街の人はかつて、幼い僕らが心に傷を負わないように、このことを大きな騒ぎにはしなかったんだと思う。

でも、いなくなっただけだと思っていたから、言えなかった言葉があった。今は、知っている。やっと、言える。

──さよなら、千秋お姉さん。

それは、もう、とっくに終わっているはずの花だった。けれど、僕の目の前にもう一度。長い髪をしたあの笑顔が、ふっと浮かんできてくれた。



※以下の企画に参加させていただきました。


いいなと思ったら応援しよう!

財布野紐ゆるみ 書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。