新年好【創作】
ポーターの仕事は、思っているより「外」に出るものだった。ドアの開閉に荷物運び、団体の誘導作業。冬になると、手の甲がすぐに赤くなる。だからハンドクリームは、制服のポケットに忍ばせていた。
薄い黄色の、大人しめなパッケージ。
そのクリームは、なにも特別なものじゃない。肌にやさしく、生活の邪魔にならない微かな香料。その分ややお高めではあるが、ドラッグストア店員に勧められれば買うのを軽く決められる程度の品。
それを塗るたびに、僕はウェン・ルイのことを思い出す。
* * *
彼女は、フロントに立っていた。このホテルは、高級すぎるわけでも、安すぎるわけでもない。観光客と出張客が混じって、ロビーはいつも少しだけ騒がしい。完璧な笑顔や重厚なもてなしよりも、安定感のあるサービスと回転の速さが求められた。
日本語と英語、中国語を扱えるルイは、外国人観光客対応の要だった。その性分からか、お国柄からか。よく笑う日もあれば、急に黙り込む日もあった。気が強くて、でも引きずらない。僕にとっては、話しかけやすい同僚。それ以上でも以下でもなかった。
従業員証の写真が、実際の顔と比べて嘘みたいに顎のラインがきれいだったことが妙に印象的だった。
朝のチェックアウトのラッシュが終わり、昼に作業の谷間ができたら交代で休憩をとる。そんな、ある日の休憩時間のことだった。自販機でコーヒーを買ったあと、僕は更衣室の前の洗面台で手を洗っていた。ポケットからハンドクリームを出すと、近くにいたルイがそれに気づいた。
「それ、イイ?」
少し不安定だけど、意味は取り違えない。彼女はいつも、そんな日本語を話した。
「あったほうがいいよ。」
そう言ってパッケージを向けると、彼女は手の甲をこちらに差し出した。僕は少しだけ手のひらに出して、クリームを渡した。
ルイはそれを両手に広げ、指を動かした。それからなにか気づいたように、目をくりくりさせて、僕の手を取った。
「ほら、すべすべ。」
僕の指先が、彼女の手の甲に触れさせられる格好になった。一瞬戸惑ったあと、すべすべした感触がたしかについてきた。
その瞬間、背中のあたりに視線を感じた。
振り返らなかったけれど、鏡越しに、フロント主任の姿がそこにあったように見えた。曖昧で、ただの気のせいかもしれない。
僕は、さっと手を引いた。変に噂になったりしなければいいが、と少しだけ面倒に感じた。フロント主任は、真面目で寡黙な男だった。
ルイはそのとき、別に何も言わなかった。笑っているようにも、困っているようにも見える、よく分からない表情をしていた。
呼び出しの声があり、彼女はいそいそとフロントに戻っていった。
* * *
別の日。ロビーが混雑していた。
通路をふさぎ、列を乱していたのは中国人の団体客だった。僕は荷物を持ったまま誘導していたので、ひとりでさばききるにはどうしても限界がある。そのとき客の方から、舌打ちと、小さな声が重なって耳に入った。
そちらに一瞥をくれる。口調とその表情から、悪意とあざけりの混じった意図は十二分に伝わった。中国語はわからないが、要するに僕に「邪魔だからどけ」とでも言いたいんだろう。
聞こえないふりをした。ポーターには判断権がない。そういう場面はいくつも経験してきた。理不尽な反応をされたときも、過剰な要求をされたときも。できるできないの線引きを、機械的にするしかなかった。
すると、フロントのほうから、短く鋭い中国語が飛んだ。
ルイだった。
何を言ったのか、もちろん分からなかった。けれど、少し吊った眉根とその調子で。言葉を受けた相手は一瞬黙り、視線をそらして散っていった。
「大丈夫?」
それは、口の動きだけだった。
僕はうなずいた。目くばせはしたものの、ありがとう、と言うタイミングを逃したまま、右手で荷物を転がしていった。彼女は、何事もなかったように仕事に戻っていた。
* * *
外国語は、英語とドイツ語だけしかやってこなかった。けれどこの仕事柄、僕にもいくつか覚えた中国語があった。
そのうちのひとつが、旧正月に使用される新年の言葉「新年好」。あけましておめでとう、だ。
中国勢は、特に家族を大事にする傾向がある。この時期は、中国人にとっての帰省ラッシュとなるわけだが、ルイに限っては今年は国には帰らないと聞いていた。
旧正月の日、僕は出勤だった。僕はこの少し前から彼女に「新年好」と声をかけようと決めていた。もちろんただの挨拶で、他意はない。笑ってくれればいいな、くらいの気持ちだった。
ロビーの装飾は普段と変わらなかった。照明の明るさも、仕事の流れも。けれどその日、ルイが姿を見せることはなかった。その日だけでなく、次の日も。
「今年は、帰らない。」
少し前の雑談を思い出す。ああ言っていて、急遽国に帰ったのかもしれないな。僕は呑気に、そんなことを考えていたと思う。
今朝の、申し送りの紙をもう一度見返した。昨日あったちょっとしたトラブルや、団体客の情報の記載。VIP対応客の予定はなし。
そして……そこにいつもあったはずの、ウェン・ルイの名前もない。
僕はそのまま、彼女に二度と会うことはなかった。
* * *
「フロント主任、今日までだって。」
それから数日後、仲間内の雑談でそんな声を聞いた。休憩室には、新しく「私的関係による服務規程違反」の情報が貼られていた。フロント主任は、そういえば既婚者だった。
僕の中には、怒りも失望も残らなかった。ただ、そうなのか、と思っただけだ。
職場はすぐに元に戻った。新しい人が入り、ロビーはいつも通り回り始める。決められた作業と、定型の言葉。淡々とした日常が、そこにあった。
今も、接客中に舌打ちをされることはある。邪魔だと言われることも。
そういう日。手を洗い、ハンドクリームを塗ったあとに、頭にふっと浮かぶ。甘すぎず、ほのかに薬品っぽい匂いとともに。
あのとき触られた指先の感触と、旧正月の日付。それは、もはや熱を持った記憶ではない。でも、完全に冷めきったとも言えなかった。わずかな温度として、この手に残っている。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。