安全な場所から【創作】
私の職場の、建物入口には、階段とスロープがある。
スロープは、荷物の搬入や、車椅子での出入り用に使われるものだが、職員が歩いて通るのに使うこともある。私は、階段を使うこともできるし、スロープを使うこともできる。そこを選べる人と、選べない人がいる。
人はいつも、安全な場所にいようとする。危険なことをわざわざ選ぶ必要性が薄いからだと思う。
あのとき私がいた位置は、どこにあったのだろうか。
そう、今でもふと思うことがある。
* * *
小学校五年生のとき、私のクラスには栄美という足の不自由な女子がいた。
栄美の隣には、いつも女の人がいた。先生ではないらしかった。でも授業中もずっとそばにいて、ノートを開いたり、椅子を引いたり。ときには、栄美の見ている教科書を指で示したりした。
別に、優遇されていると思ったわけでもない。まあ、普通のこと。支援される役割の子がいて、補助する役割の大人がいるという日常の風景だった。
当の栄美とは、ほとんど会話をしたことがなかった。補助役の人がいつもそばにいたし、なんとなく、一緒に行動する感じでもなかった。
あるとき、ひとりの男子生徒が、栄美のことをからかった。その男子の名前は、康平と言った。
康平は、先生も付き人の人もいない休み時間に、彼女の前で、ふざけて足をふらつかせて歩いた。うまく歩けない栄美の真似をするパフォーマンスをして、笑いをとった。
許せなかった。やってはいけないことだと思った。無配慮なその姿に、腹が立った。私は、その場にいた。でも、私も一緒にいた友人の京華も、そこではなにもできなかった。
次の日から、しばらく栄美は学校を休んだ。理由はもちろん、前日の過度ないじりだったのだろう。
担任は康平を呼び出し、話を聞いたらしい。
どういう話があったかはわからない。でも、私は京華と話し、なにか栄美にしてあげられないかと考えた。
まだ栄美が出てこられない、クラスの学級会で。私と京華は、康平がいかに悪いことをしたかを訴え、断罪した。周りのみんなで、栄美を支えてあげようよと今さら声をあげた。
康平はそのとき教室にいた。黙って、声をあげなかったと思う。泣くことも、言い訳することもしなかった。
数日後、栄美もクラスに戻ってきた。もちろん、付き人の女性も一緒だった。
そんなことがあって、高校に上がったころ。
少し刺激のあるうわさ話を聞いた。中学が同じだった京華から、雑談の流れで。
「あの、小学校のころクラスにいた栄美のこと覚えてる?」
「もちろん、覚えてるよ。」
康平のやつひどかったよね、と続けようとしたときだった。
「あの子、康平くんと一緒の高校行って、今ふたり付き合ってんだってよ。」
「……へえ。」
そうなんだ、と思ったのは本当だが、少し理解に時間がかかった。栄美とも、康平とも、中学にあがってからは交流がなかった。京華にしても、別グループの情報をまた聞きした程度で、詳しくは知らないらしい。
「……なにがあったんだろ。」
「あ、それ気になるよね。あの、いじりの一件の詳細も、私らは当時はわかってなかったんだけどさ。」
「うん。」
「あの付き人みたいな職員の女いたでしょ? あの人が授業中、間違いを栄美に教えてたとかで、それを康平が見てたらしいのね。
それでなんか、反発あったというか。いい加減な補助をされるのは本人のためじゃないとか、自分の足で歩けるなら歩けとか、熱くなったみたいな? 感じなのかなあ。」
なのかなあ、と言われても、私にも当然、知る由もない。少なくとも、当時の康平は、栄美を好いておらず嫌っているように見えていた気がする。
はっきり覚えているのは、あの一件でしばらく栄美が学校を休んだことと、許されないと康平をみんなの前で責めたことくらいだ。
それは、私や京華からすれば善行だったし、彼女を守るための行動だった。正しい場所にいると思っていた。でも、同時に安全な場所でもあった。
あのふざけた歩き方の意味を、私はあとから考えるようになった。でも、栄美が結果、傷ついたのは事実だ。許されるものでもない。
でも、こうしてふたりが一緒にいることをあとからでも選んだのだとしたら。私の怒りは、誰に向けたもので、私があのとき学級会で声高に叫んだことは、何の意味があったんだろう。
その裏でなにがあったか。見えていなかったことは、いくつもあったのかもしれなかった。
* * *
今日は、近いスロープの方ではなく、階段の方を使うことを選んだ。
康平があのとき、栄美の前でふざけたとき。あの時も私は、安全な位置にいた。今もそれは、否定できない。そしてその場所に、名前はつけられない。
康平をつかまえて話を聞くことも。栄美に声をかけて寄り添うことも。あの場で私は、しなかった。
あの時、空気を乱さなかった自分は賢かったのだろうか。あとになって正義を振りかざした自分は大人だったのだろうか。私の行動は、結局あの子を救うことには、つながらなかったのだろうか。
階段を上がりながら、あのとき自分がいた場所のことを考えていた。
ふと、先週あった、バリアフリー研修を思い出す。
障がい者配慮や正義的な話題に、率直な意見を言うことはできる。でもそれは、どこか無難なものに落ち着いている気がする。栄美や、康平ならまた、違った意見を持てるのだろうか。
建物入口でカードをかざし、扉を開錠する。
ピーという音に続いて、ガチャリと無機質な音が響いた。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。