残していい【創作】
まだ、だめだった。
包丁を握ると、指が開かなくなる。力を入れているつもりはないのに、関節が固まり、手のひらが自分のものじゃなくなる。周囲の音が遠のき、白い作業台に反射する光だけが、やけに眩しい。人の気配が増えるほど、光は増幅する。
周りの音が、遠く離れていく。
ああ、と思う。
「退職」の二文字が頭をよぎる。迷惑はかけたくない。でも、自分で自分を変えられない。
忙しい時間帯だった。熱気の中で、鍋の蓋が音を立て、タイマーが短く鳴いて、誰かの声が飛ぶ。
私は小休憩をもらい、エプロンと帽子、手袋を外してから、従業員用の休憩スペースに腰を下ろした。その部屋の壁は冷たく、少し無機質な匂いがした。でも、今なら、誰にも見られない。
前の職場のことが、勝手に浮かんできた。そこも女性ばかりだった。誰が嘘をついているか、誰と誰がつながっているか。毎日、人狼ゲームをしているみたいだった。空気を読むことが何より重要で、その重圧が、仕事の邪魔をした。私の不器用さは、格好の餌だった。結局、耐えきれずに辞めた。
今の職場は、給食センターだ。母は電話口で心配していた。
母は、私が幼いころは厳しく、食べ物を残すと怒った。だから食事の時間が嫌いだった。自分のペースで食べられない日もある。お菓子を食べていなくても、すぐお腹がいっぱいになる日だってある。
祖父の顔を思い出す。五歳の誕生日だったろうか。食卓で、私が箸を止めていると、祖父は言った。「別に無理して食べなくても、残していい」。その一言で、胸の奥の緊張がほどけたのを覚えている。喉から、空気がすっと通るような感覚。
その日から、母も、あまり目くじらを立てなくなった。無理して食べなくていい。その事実が、こんなにも世界を軽くするなんて、当時の私は知らなかった。
包丁は、ある事件のあと、持てなくなった。刃の反射も苦手だった。事件直後は、テレビのCMでラメが光っただけで、失神したこともある。そして、母が私に対して、いやに優しくなった。優しさはありがたかったが、同時に距離を測りかねるものだ。腫れ物に、触ろうともされないような距離感があった。
それでも自宅で、自分のための料理をひとりですることは、できるようになっていた。だから精神的なリハビリも兼ねて、給食センターを選んだ。面接のとき、過去のことは一応話してある。
できると思った。でも、やはり包丁の工程は無理だった。握ると指が開かない。特に背後に人がいると、意識がそちらに向き、光が増す。
椅子に腰かけ、机の近くに顔を落としていると、足音がした。先輩だった。おそるおそる顔を上げる私に、彼女が声をかけた。
「もし、動けそうになったら入って。包丁、使わない工程まわすから。」
拍子抜けした。新入りの私は、皮むきや包丁を当然任されるものだと思っていた。
「ひとりで全部やらなくていい。この職場のいいとこだから。」
この先輩も、他のパートの人たちも、私に何があったかは知らないはずだ。忙しいから、とにかく人手がほしい。それだけかもしれない。それでも、何かを察して寄り添ってくれた、そんな感触があった。
「振られた場所で、い、一生懸命やります。」
先輩は、くすりと笑った。その顔は、優しかった。
「仕事だよ。当たり前だよ。」
給食室に戻ると、私の前に、刃物のない作業が用意されていた。流れ作業の中で、私は手を動かす。遅れても、誰かが拾ってくれる。拾った分は、別の誰かが受け取って、また引き継ぐ。
この職場は、自然とそんな風に、まわっていた。
残していい。
祖父の声が、今の私の足元から立ち上がってくる。全部を担わなくていい。無理して飲み込まなくていい。
ここでは、人狼ゲームは始まらない。今日の目的は、昼までに、子どもたちの給食を出すこと。それだけだ。そのあとのことは、今日が終わったらまた、みんなで考えればいい。
私の世界に、音が戻ってくる。
できない仕事を残しても、私はこの先も続いていく。
きっと明日も、その先も。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。