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意表の待遇と現実の底【創作】

新入社員の奈帆は、面接での言葉を思い出していた。

「当社では、社員一人ひとりの働きやすさを大切にしています。」

入社初日、奈帆は意表を突かれた。

デスクに揃えられた文房具、完璧にセットアップされたパソコン。さらに、好みの豆で淹れられたコーヒー、座り心地のよい椅子──まさに「理想の職場」が目の前に広がっていた。

気づかいがやけに細かい。「なんでここまで?」という部分はなくはないが、新卒ペーペーにコストをかけてもらえるのは、きっとありがたいことだ。

先に入っていた先輩は、無表情でごくごく単純な引継ぎ作業をしてくれたあと、姿を見せなくなった。彼女のデスクには、散乱していたメモや付箋もそのまま残っていた。もともと別部署に行くことになっていたのか、それは知らされなかった。

「先輩はどうされましたか」と、後日人事担当へ確認した際、「気にされなくて大丈夫ですよ」と妙にはぐらかされた感があった。

とはいえ奈帆には、大きな問題なく新卒一年目の仕事が始まったかに見えていた。

* * *

しかし入社して二ヶ月もするころ、奈帆は毎朝の「儀式」に違和感を覚えはじめていた。

朝礼で、新卒が日替わりで社訓を読み上げる。

「誠実」「挑戦」「献身」「根性」──どれも立派な言葉だが、読み上げる声が少しでもつかえると、上司が「もう一回いこう」と優しく促す。

口調は優しいのに、断れない圧だけは妙に強い……。

「『誠実』とは、お客様に嘘をつかず、相手に心を向けてその言葉を──」

そこで語られる、会社の心構えや理念は立派だ。奈帆も、この社訓に書かれた言葉は、熱く胸に響いていた。少なくとも、最初のころは。

他の先輩社員らは、慣れきった無表情で聞いているだけで、誰も口を動かさない。その温度差に、奈帆は毎朝、胸の奥がざわついていた。

そして数週間後、破りがたい現実の壁にぶつかる。

終わらない残業、根拠のはっきりしない納期、上司の「悪く取らないでね?」と前置きされた、奇妙な指示。

新人だから手が遅いために作業が終わらないのか。今日振られた仕事の作業期限がいやに短く、前日までに任された作業が終わらないまま積みあがっていく。タスクの増え方に規則性がなく、スケジューリングが定まらない。

今日の奈帆は、自身が椅子に腰かけたときの音が、背中でやけに大きく響くのを感じていた。

同期たちも皆、どこか疲れた目をしている。不合理を押し付けられながら、それでも声を上げないのは、誰ひとりとして「この違和感は間違いだ」と言い切れなかったからだろうか。

微妙に既視感のある、その違和感に奈帆は眉をひそめた。まるでみんな、何かに操られているみたいな……。

デスクに座りながらコーヒーを手に心の中で考え、はっと気づく。大学で習った心理学の授業だ。

『強制的な儀式には、依存構造を作る目的があることが多い。』

宗教や、洗脳に利用される、人間心理。同調圧力・集団行動の話を、心理学の講師はよくしていた。「朝礼での社訓の読み上げ」はまさにこれではないのか。奈帆の違和感は突如、頭の中で理屈として積み上がっていった。

他にも。

誰かから何かをもらうと、お返しをしないと居心地の悪くなる心理。確か、「返報性のルール」……。

ちょっとしたお菓子を個別に手渡しされたり、好きなコーヒーを与えられたり。そんな風に上司に「今日は頑張って」と言われた日に限って、無茶な依頼や断りたい残業を押し付けられてきた気がする。……思えば、たかだか新卒ひとりのために整えられすぎた職場環境もしかり。

隣席の同僚の麻美に視線をうつす。彼女は、山のような資料をかかえてため息をついていた。

課内の上司に「この資料、簡単にまとめておいて」と依頼され、麻美が請け負った次の日。「よくできてるね。同じ形式でいいから、部全体のデータをまとめて。明日までに」と急に難題を押し付けられていた。

小さな要求を受け入れさせてから、大きな要求を通す。まるで人としての行動一貫性を悪用し、麻美を使役しているかのようだった。

直近の、委員会会議の異様さだって、どうだ。会社の上役が参加する大きな規模のものに、なぜわざわざ新卒複数名を同席させていたのか。……無理な方針や危険な決定が出たとしても、あたかも正しい内容かのように押し通そうという魂胆ではないのか。権威バイアス。社会的証明。

奈帆が感じた寒気は、コーヒーで体が冷えたからではない。会社の「待遇の良さ」が、見せかけの包装紙にすぎなかったことに今さら気づいたからだ。

この社内で、巧妙にそういった人間を操るための心理が悪用されている。

* * *

昼休み、同期全員の入ったグループチャットで声をかけた。部署は今やバラバラでも、新社員研修を一緒に乗り切った彼女たちの結束は固い。

「私たち、そろそろ動くべきだと思う。どう考えてもこの会社は普通じゃない。」

奈帆の言葉に対して、最初は反応がまばらだった。
「大事な新卒のカードを切って入社したのだから、離れるのはもったいない。」
「三年はこの会社で頑張った方がいいんじゃないか?」

入社時の面接や研修がきつかったがゆえ、その集団を正当化してしまうのだろう。そんなもの、ただのイニシエーション効果でしかない。

このとき、すでに意見を共にしている麻美が、奈帆を強くバックアップした。そもそも「まず三年は耐えてみる」も、社長が散々繰り返し口にしていた言葉で、同じ情報に繰り返し触れたことで信頼度が無条件に増してしまっているだけ──いわゆる「単純接触効果」だ、と。

沈黙していた慎之介が、ぽつりと書き込んだ。

「……僕も最近、おかしいと思ってたんだ。」

ひと言を皮切りに、次々と「実は私も」が続き、ついに新卒七名全員の意見が揃った。奈帆は、みなの心の壁が音を立てて崩れた気がした。

* * *

そこからは早かった。

入社五ヶ月目に、裏で全員が連携して転職活動を進めた。面接日程の調整、履歴書のブラッシュアップ、情報交換。小さな連帯をまめに行っていたのは、はじめは三年耐えようとしていた晃一だった。彼の機動力は、孤立無援の部署で生き抜くメンバーの力となった。

退職届のテンプレは、几帳面な性格の幸裕が作ったものが全員に共有された。就業規則のコピーと労働条件通知書で、有給付与日が十月一日である旨を確認してくれたのは、法学部卒の雅也だ。二週間前に退職の意向を伝えれば、有給を消化して会社を去ることができるとわかった。同じ条件で、全員が同時に辞められるよう、話が進んでいった。

だまされているふりをして逆説的な防衛を図る案を出したのは、疑い深い美香だった。

表では、上司が大事にしている「キーワード」を反芻し、相手の言い分には真剣に同じリズムでうなずくフリ。そんなミラーリングを駆使し、辞意を表明するギリギリまで、全員優等生を演じ、忠義を装っていた。

有給申請は、ひとりふたり申請した際にはなかなか結果がかえってこなかったが、全員が申請したころに、一斉に通った。

* * *

そして、退職日。

部長は笑顔をつくりながら、「本当、急にどうしたんだ」と形だけの言葉を並べた。本社から来ていた社長は何か言いたそうだったが、何も言わなかった。人事担当は、新卒の退職ラッシュにより、驚きで目が見開かれていた。

奈帆は、それらを意にも介さず終始笑顔でいた。

「本当に、この会社は居心地がよかったです。会社で学んだ経験を、次に活かしたいと思います。」

その言葉は本心だった。利用された心理テクニックも、実現性を伴わない見せかけの理想も。……今後の自分自身を守る糧となった気がする。

会社を出た瞬間、奈帆は深呼吸する。もう、表向きで従順なふりをする必要はなくなった。内側では、自分の未来を取り戻している。心理学は支配の道具でもあるが、同時に、生き抜くための武器でもある。

奈帆はスマートフォンを開き、同期たちに短くメッセージを送った。

「よし、次行こう。」

冷たい夜風の中、奈帆は笑った。意表をつかれた待遇と、現実の厳しさの間で、自分たちは確かに生き抜いたのだと。

あの会社で学んだのは、仕事のやり方ではない。人が人を支配する仕組みと、そこから抜け出す方法だった。

──でも、もし私が、もう少し染まってしまっていたら。もし、学生時分にあの授業を受けていなかったら……。

奈帆の頭を、暗く重い考えがよぎる。

──まだこの世界には、抜け出せない人たちもいる。

そのことを忘れたくないと、帰り道、彼女はひしと心に刻み込んだ。


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財布野紐ゆるみ 書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。