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三割の空白【創作】

男は、小説を書いていた。齢にして六十になる。

夜、椅子に座って、いつものようにパソコンのキーを叩く。寝ている妻に「うるさい」と言われてからは、静音タイプのキーボードに変えた。別に道具にこだわりはない。男からすれば、文章が書けさえすればなんでもよかった。

部屋に静寂がひとつ。これから、また彼にとって長い時間が流れるのだ。文字の海に飛び込む思考の旅路は、ときに実際に足を運ぶ旅よりも心が躍ることがある。

いつも利用している小説投稿サイトで、空想の種を求めて他ユーザーの作品に目を通していたときのことだった。

ふと、読んでいた作品につけられたコメントに目がいった。

『私はすべて手書きで書いている。AI使ってる時点で作家を名乗るな。』

強いコメントに眉をひそめる。そのユーザーのコメントログを追うと、そこには、AI使用者を糾弾するコメントが多く並んでいる。作品評価や感想を共有すべき場で、やっていることは自己投影とレッテル張りの繰り返しだった。

男も、生成AIを小説執筆の補助ツールとして使用していた。文章を仕上げる際の、校正用だ。

彼自身は、賞の受賞歴などもない素人であり、イベントで数度、自費出版した本を販売したことがある程度。「作家」を自称するのもおこがましいとさえ思っていた。

ただし、長い時間、創作と向き合ってきた自負はある。

だからこそ、そのコメント主の言いたいことは、痛いほどわかる。文字を紡ぎ出す苦労を知っているからこその言葉。白い画面を、言葉で埋めることができない恐怖と戦う孤独。自分が格闘しているその壁を、他者がいともたやすく越えてゆくような感覚。

男の、マウスを持つ手が止まる。それでもカーソルがまだ少し、かすかに動いている。

真剣に向き合っているからこそ。ある種の歪んだ感情が、表に出てきてしまうことは往々にしてある。それが、どんな聖人であっても。

もちろん生成AIは、表現者にとって使用に慎重になるべきツールではある。文章の癖を拾って確率予想をしている仕組みだとわかっていても、そのまま吐き出されたAIの文章を「自分のもの」として発表することには、他者の権利侵害のリスクがつきまとう。

そのコメントに、返信をしようとしてキーをタッチする。しかし、言葉がうまく出てこない。椅子の背中が、キイと音を立てて傾いた。

男は考える。今、目の前にある、真新しく汚れも埃もないキーボード。これを叩いて紡いだ文章は、果たして自分の「本物の言葉」なんだろうか。

コメント内にあった、「私はすべて手書きで書いている……」の声が頭で再生される。男か女か、若者か老人かはわからなかった。

そのまま自室で、男の姿はいつしか若い時分に戻っていた。濃い緑色の制服は、中学時代のものだ。髪は黒髪に戻り、ブレザーをめくった内側には、自身の苗字の刺繍がある。

臀部に固い感覚。さきほどまでのオフィスチェアのメッシュの座面は、学習机に付属した木製椅子のそれに変質していた。

目の前には、鉛筆と原稿用紙がある。四百字詰めの、安価なものだ。

ああ、そうだ。

男は若いころ、同じことを自問したことがあった。

修学旅行の少し前。創作仲間の学友と見せ合うため、自作の小説を準備することになった。男が書いたのは、二万文字超の推理小説。

このとき、はじめて知った。

ある程度の段落分けや会話文が含まれる場合、四百字詰め原稿用紙でも七割程度しか文字は埋まらない。つまり、百枚用意したからといって、四万字の小説がおさまるわけではないのだ。

もしかすると、原稿用紙に小説を「手書き」で書いたことがなければ実感は難しいかもしれない。

もちろん、構成を事前に考えたうえで、原稿用紙は清書に使うのが前提だ。完成版を写すだけならば、手書きで一文字一文字、紙に文字を紡いでいくこともそこまで大変な作業ではない。

しかし、手を動かすうちに聴こえてくるのだ。自身の中から、ささやきが。ここの表現は、こう変えた方がよかったのではないか? この構成は、ここと入れ替えた方が一段出来栄えが上がるのではないか? と。

湧き出るアイデアが、じわじわと自身の首を絞める。いいものを思いついてしまったら、今書いているものが途端に陳腐に見えてくる。

とはいえ、すべてを消して書き換えるのでは、時間が足りない。男は、原稿と触れていた自分の右手を見た。その手の側面は、黒鉛をてらてらと光らせながら、「書くのに疲れた。もう消しゴムを動かす力は残っていない」と抗議しているかのようだ。

そして考える。

この余白の三割部分を使うことができないか、と。

現行版から、段落分けを減らせないか? 台詞の言い回しを変えて一行浮かせれば、最低限の構成組み換えで、入れたい表現を加えられる。区切りのいいページで構成された段落があれば、それごと入れ替えて順序を前後させる荒業も検討可能だ。

本当にやりたい表現と、字数行数の制約の間で生まれた駆け引きは、苛烈だった。さながら、飼い犬との散歩時のリードの奪い合いのようだ。

そうして、せめぎあいを制し、完成版の原稿を手にしたとき。

ふと思ったのだ。

たしかに自身の手で、手書きで書いたこの文章は──。
果たして自分の「本物の言葉」なんだろうか、と。

はじめに表現したいと思って紡いだ言葉の真意が、制約によって歪んではいないか。楽をしようと、大幅な改訂を怠ったことで、魂が削られてはいないか。

原稿を修学旅行に連れていくため、旅行鞄を開ける。ナイロン袋に入れたその原稿用紙は、重かった。そのずしりとした手ごたえが、胸に残っている。

そうして男は、次の瞬間に元の姿に戻っていた。顔をあげると、パソコンのモニターが、悲しげに白く点灯している。

ため息をひとつ落とし、男はその妙に現実的な夢から、感覚を切り替えるようつとめた。

マウスカーソルを操り、クリックすると、自作の小説が表示される。パソコンとワープロソフトを使用し、タイプして紡いだ文字。これも、自分の言葉で紡いだものだ。昔ほどは、手も汚れないし疲れない。

他者の著作を読むときも。学生時代は、わからない熟語や漢字が出るたび、漢和辞典や辞書をひいては「新語ノート」という自作ノートにしたためていた。その次の創作で、新たに知った言葉を使うためだ。

少し文章を打ち、無意識にスペースキーを押して漢字が一瞬で変換されるのを視認してはっとした。それが、自分で選んだ漢字だと気づくまで、少し時間がかかった。

構成入れ替えは地獄、清書なんて写経もの。そんな原稿用紙時代の回想の中に、意識がまだ取り残されているようだった。

さっきのコメント主に対して、ついに男は返信しなかった。書きかけた文章は消し、コメント欄を閉じる。

反論することは特にない。あのコメントをしたのは、もしかすると昔の自分だったかもしれない。原稿用紙に、魂を込めていたころの……。

自作小説を校正するときの、AIによる誤字の訂正。誤った表現の改訂。そして、表記揺れの統一。それらを書き換えたのは、たしかにツールであって自分ではない。コメント主の声が、また聞こえた気がした。

それでも、男は思う。

自分には、他者を断罪する資格はない。
だからといって、礼賛する必要もない。

苦労した、手書きの時代を知っている。
そして、知ったうえで今、この場所に立っている。

頭に手をやり、少し傷んだ白髪の所在を確認する。時計を見ると、まだ休むには早いように感じた。

キーボードに、もう一度。そっと両手を乗せた。静寂がもうひとつ、男の周りを優しく包んでくれていた。


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財布野紐ゆるみ 書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。