拝啓、西野春子様【創作】
夕刻の公民館。コピー機の音と、遠くの運動サークルの笑い声。西野小春は、持ち込んだ書類をまとめながら、早く帰りたい気持ちを押し隠していた。
会議室の壁には「地域福祉相談窓口」と書かれた紙。小春は、市役所の地域支援担当として、今日の相談会を終えて資料を片付けていた。
「西野さん、今日もありがとうねぇ。」
受付の女性が、どこかそわそわと声をかける。小春は軽く会釈し、腕時計を見る。
「いいえ、こちらこそ。では、失礼しま──」
「西野さん。」
その背中を、ためらいがちな声が呼び止める。
「お名前、『にしのこはる』さんで、間違いないですよね?」
振り返ると、自治会長らしき年配の男性が、色あせた封筒を持って立っていた。訝しげに「ええ……」とだけ返事をする。
「先日名簿を見ていて、ふと気になりまして。」
封筒の宛名には、震える筆跡で次のように書いてあった。
「西野春子様」
小春は、わずかに眉を寄せた。
「春子は、母の名前です。私の名前ではありません……。」
自治会長は頷いて、申し訳なさそうに言葉を探す。
「お母さんの字、でしょうか?」
小春の胸が、疼く。何年も、見ていないはずの筆跡。思い出したくもない名前。続けざまに現れ、息を詰めた。
「……字はわからないです。もう、関係のない人ですから。」
押し殺した声。
もう何年も、母のことを聞かれれば「いない」と答えてきた。そうすれば、誰も深追いして聞いてこなかった。
何十年も前に、父を裏切って出て行った女。幼い私を置いて、他の男についていった女。そんな人間はいないものとしておいた方が、小春にとってよほど楽だった。
しかし、自治会長はそっともう一通、机に置く。その封筒にも、同様に「西野春子様」の宛名があった。
「実はね、この町には……こういう手紙を、持ってる人が結構いるんです。たぶん、何十通、いや……もっと。」
ざわりと、周囲にいた人が振り返る。お年寄り、主婦らしき女性、体操サークルの人たち。各々の表情に、「言い出せなかった」気配が浮かんでいる。
「もちろん、捨てちゃった人も、たくさんいると思いますよ。
番地が違うのも、名前が違うのも……認知がすすんでいたんでしょう。自身と、あなたの名を取り違えてしまったのかと。」
受付係が俯く。
「私も一度は、処分しようかと思ったんです。でも……」
小春はここで、ひとつ置かれた封筒の口を少し粗く破り、中身を取り出した。一枚一枚に、時間をかけた跡がうかがえる。どの字も、震えながら、押しつぶされそうな字で書いてあった。
──拝啓、西野春子様
ななめ読みでも、孤独、謝罪、後悔……。そんな気持ちが綴られていることが見て取れる。封筒をなでる、指先が震えた。
受付係の声が細くなる。
「捨てられなかったんです。」
小春は視線を落とす。封筒の重さ。知らない年月。一度も届かなかった思い。
便箋の端には、小さな食べこぼしの跡があった。茶色に染み、時間が経って、その輪郭だけが残っている。どれくらい、ひとりで食卓に向かっていたのか。小春は無意識に目をつぶっていた。
「町名だけあってて、番地はバラバラ。だから、うちにも、隣にも、他にもね……」
自治会長は、ゆっくり言葉を継ぐ。
「きっと、お母さんはここ数年……いえ、もう少し前からかもしれません。ずっと書いていた。住所も宛名も間違っていたけど、かつてこの町に住んでいたあなたへ。
娘さんがこの町に帰ってるって、誰かから聞いたとき……『今日なら渡せる』って、みんな、思ったんです。」
静かなざわめき。数人が、封筒を取り出す。
「私も、やっぱり捨てられなくて。」
そこには、同じような「春子様」と震える筆跡。
「……一度、開けてしまったけど。」
そこには、同じような便箋の厚み。
「お渡しできて、よかったです。」
似たような封筒と便箋に、同じような折り皺。
小春の胸が、ひどく痛む。
「……っ。」
声にならない。
思い出したくない過去が、無理やり扉を開けてくる。夕暮れの台所。ミトン越しに父の手が震えていた日の、焦げた味噌汁の匂い。小さな自分の背中を抱いてくれた「たったひとり」の温度。
「母は……今、どこに。」
しぼり出すと、誰もが顔を伏せた。自治会長が、静かに告げる。
「ここからはずいぶん離れた土地です。すでに去年、自宅で……」
一拍。音が途切れる。
小春の手が、封筒を握りしめた。爪が食い込む。
「こんな……こんな、勝手な……」
肩が震える。怒りか、悔しさか、空白か。誰にもわからない。
誰も、口を挟まなかった。やがて、小春は立ちのぼる感情をこらえながら、封筒を胸に抱く。
「……どうして、今なんですかね。」
自治会長が、穏やかで、少し震えた声で答える。
「届けられる人が……ようやく、来てくれたからでしょう。」
公民館の時計が時を刻む。夕焼けの光が窓から差し込み、埃が金色に舞う。
会場の隅。今日配った「高齢者の孤立対策について」の文字が印刷されたパンフレットが、まだ温もりを残すコピー紙の上に置かれている。
小春は目をそらした。ほんの数時間前に、自分の声で説明した仕組み。無音で押し寄せる「それでも届かない人がいる」という現実……。
小春は、泣くでもなく、笑うでもなく、ただ深く息を吸い込んだ。
胸いっぱいに、重い便箋を抱えて。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。