遅れて、届く【せりふ三題噺 / 追い越し車線ブログ餅】
父にドライブレコーダーを買うべきか、長いこと迷っていた。
少し前に、父は小さな接触事故を一度起こしている。大事には至らなかったが、「ヒヤッとした」という言葉が電話口で繰り返され、その言葉にこちらも背筋が寒くなった。免許返納を考えてもおかしくない年齢だ。娘としては、いずれその話をしなければならない立場なのだと思う。
それでも、父の車は、まだ実家では移動の要だった。
足の悪い母を病院へ連れていくのも、週に一度の買い出しも、地域の清掃ボランティアも。そのすべてが父の運転に支えられている。最近では、頼まれて地域団体のブログ制作まで引き受けているらしく、集会やイベントに出向くのにも車が欠かせない。
決して上手くなかったが、事故を呼び込むような荒々しいタイプの運転はしなかった。追い越し車線を使うのも好きではなく、「急ぎたい人だけ使えばいい」とよく言っていた。
私は結婚し、実家から離れて暮らしている。兄は実家近くに住んでいるものの、仕事が忙しく、いつでも両親を見られるわけではない。車を手放すことは、父と母の生活の幅を狭めてしまう気がして、決断を迫る勇気はなかった。
だから私は結局、ドライブレコーダーを買ってあげることを選んだ。
運転を勧めるためでも、監視するためでもない。ただ「もしものとき」に、せめて何かが残るように。それだけの理由だったが、迷いを散らすにはちょうどいい距離の選択だった。
誕生日でもクリスマスでもない、ただの平日。私は購入したデバイスを、実家へ発送してもらった。
取り付けを頼まれたのは、帰省した週末だった。
「あ、まだ取り付けてなかったんだ。」
私が言うと、ばつが悪そうに父は答える。
「説明書読んでも、よく分からんかった。最近は集会で講演も頼まれてて、その資料を作るのに忙しくてな……。」
やれやれと思った。頼られて人のために行動する父の顔は、働いていたころよりもずっと生き生きしているように感じる。これも、車を手放すことについて、私の口を重くしている理由のひとつだった。
ダッシュボードの上に、開封済の箱が置いてある。私は機械に強いわけではなく、できれば兄に見てもらいたかったが……設定動画を見ながらなら、何とかなるだろう。
「前方を撮る、でいいのかな?」
吸盤をフロントガラスに押しつけ、配線を内張りに沿わせる。素人ながら、それっぽく設置することができた。
「これで、何かあっても大丈夫だな。」
私が悪戦苦闘している後ろで、父は腕を組んで、満足そうに言った。
しかし、事故の連絡が来たのは、それから三週間後だった。
交差点での接触事故。相手も軽傷で、父も母も無事だと聞いて、私はまずは安堵した。だが、兄の話では、事故の状況が少し食い違っているらしい。
「相手の言い分と、親父の言い分がな……。こっちの助手席の母さんの動きが、ちょっと問題になってるらしくて。」
詳しく電話で聞くと、相手は、父の隣に座っていた母がスマホを見せていたと言っているのだという。それで運転中に気が散ったのではないか、と。
「お母さん、そんなことしてないでしょ。ちゃんと言ったの?」
「もちろん言ったが、なぜそう思われたのかわからんからな。母さんも、よく覚えてないと言うし。」
私は、嫌な予感がした。スマホを持つ手先が冷える感覚。
ドライブレコーダーは前向きだ。信号機のタイミングや交差点との位置関係ならわかるだろうが、外優先の画角では、車内の細かな様子までは映っていないはずだ。
「これじゃ、役に立たないかもしれないけど……。」
そう思いながら帰省し、父と並んで映像を確認した。再生された画面を見た瞬間、私は言葉を失った。
父の顔が映っていた。ハンドルを握る手、その隣に母の姿もある。
映っていたのは、前方ではなかった。前を向けたつもりで、実際には後方、車内向きに取り付けていたのだ。
映像は、事故の少し前のシーンに移る。母は足元に視線を落とし、身をかがめている。小さな薬袋が、シートの下に滑り込んだようだ。
母の動きに気づき、父はわずかに速度を落としていた。ハンドルから手を離すことなく、視線は前に残したまま、母の動きを待つようにして。
母が体を起こそうとした、その瞬間だった。
父はブレーキを踏み、反射的にハンドルを切った。
「あっ!」
短い声と同時に、画面が大きく揺れた。
映像には、スマホは映っていない。ただ、母が体勢を崩しやすい状態だったことと、父がそれを気にかけて運転していたことは、はっきり分かった。
警察は映像を何度も確認し、過失の割合は当初の想定より少し低くなった。もちろん、完全に免責ではない。それでも、「危険な運転ではなかった」という評価が残った。
車に戻る途中、父がぽつりと言った。
「お前、カメラは前を向けてくれたと思っとったのに。」
私は苦笑いした。
「ごめん……。ちゃんと見てなかった。」
父はしばらく黙っていたが、視線を逸らして言った。
「……変な顔してたな、俺。」
そう言って、照れたように笑った。
偶然だ。取り付けの向きを間違えただけだ。けれど、父がこれまで積み重ねてきた気遣いや判断が、たまたま形になって残ったのだとしたら。それを巡り合わせと呼んでも、罰は当たらない気がした。
実家の台所では、昼に食べた餅の皿が残っていた。父が母のために、小さく切って出したものだ。のどに詰まらせたら大変だから、と言っていた。
食器を洗いながら、私は思った。
理由のない出来事や偶然が、誰かの気遣いを、そっと肯定する。そんな瞬間が、人生にはときどきある。それはたぶん、誰かが真面目にやってきた時間に対して、ちょっぴり遅れて届く。
「これはご褒美だね。きっと。」
そんなことをつぶやいて、私は、洗い終えた皿を伏せた。
※以下の企画に参加させていただきました。
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