畳と升と【創作】
その夏、ぼくは中学二年生だった。同じ年であれば季節に関係なく中学二年生なのだが、少し変わった出来事があったのでよく覚えている。
ボーイスカウト交流で、バングラディッシュの少年が家に泊まることになったのだ。
黒人じゃないのに、肌が黒いんだ。
そう思ったことを、よく覚えている。ぼくは、「肌が黒いこと」と「黒人であること」の違いをよくわかっていなかった。
その少年の名前はアマンといった。鋭い目つきをしていたが、笑うと年相応に幼く見えた。
彼は英語が堪能なだけでなく、日本語も少し片言で話した。通訳役で最初だけ同行していた背の高い日本人は、大学生スカウトだったらしい。
母親は気を遣いまくっていた。
「豚肉だめだって? カレーなら食べられる?」
夕飯になにを作ればいいかわからなくなったようで、初日は結局ピザをとることになった。
「布団は、ここでいいだろ。」
父親は適当。和室、それも仏間の隣に布団を広げる。しかも、北枕だった。彼を招くことになったのは、父のつてからだそうだ。それすら忘れているかのような振る舞いに、ぼくと兄と母はあっけにとられていた。アマン本人はというと、気にもしていないし、畳の感触を喜んでいたようだった。
アマンは礼儀正しいし、堂々としている。もしかして、いいところの坊ちゃんなのかもしれない。
ピザは種類をわけて、何枚かとった。父は、アマンに「まあ、食えるもん食えばいいから」と笑っていた。
ピザをぼくが取り分けてあげたとき、アマンは、洗ってある皿を「これはきれいか」と何度も聞いて確認していた。
* * *
ぼくがあのときはじめて知ったのは、異国の匂いだったと思う。スパイスとも洗剤とも違う、不快じゃないけど慣れない不思議な匂い。そんな匂いが、彼からしていた。
夜、寝る前。歯を磨いたあと、喉が渇いて一階に降りたとき、例の畳の部屋のそばを通った。アマンの影が見える。姿勢を変え、なにやら身体の向きを定めようとしていた。
「大丈夫?」
ぼくは思わず、声をかけた。はっとして、アマンは片言で答えた。
「スミマセン。西はどっち?」
方角を気にしていたらしい。意味がわからなかった。やはり、北枕がだめだったのだろうか。ぼくは、北がこっちだから、西がこっち。と教えてあげた。
兄と二階の廊下ですれ違ったとき、その話をした。兄は笑って、「メッカの方向を向いて、お祈りがしたかったんだよ」と言った。
ぴんとこなかった。細かいことを気にして、変なの。お祈りするなら、手を合わせればそれでいいじゃないかと思った。
* * *
ボーイスカウト関連でなにかあるのか、アマンは日中は出かけていることが多かった。必然、交流するのは朝出かける前か、夕飯のときくらいだった。
平日の朝、兄とぼくは家を出る時間が違う。兄は自転車で私立の中学に、ぼくは歩きで公立の中学に通っていた。
それを見たアマンが、「同じ中学生なのに、どうして一緒に通っていないのか」と不思議がっていた。
彼はよく「これは何」という日本語を使った。食べ物の乗った皿や、天井のエアコン。和室の欄間や、庭の灯篭を見て。
そのたびに、兄が知っていれば英語で答え、難しいものはぼくが家にあった電子辞書の和英辞典をひいて、英単語を見せた。それでだいたい、伝わった。
しかし彼は、その先を知りたがった。畳が元は草なのにどうやって作られるのか。灯篭に、なぜ火が入っていないのか。ぼくと兄は四苦八苦しながら、アマンとやりとりをしたと思う。
ときには、居間で一緒にゲームをして過ごした。格闘ゲームで、ワザの出し方を教えても、ひたすら弱パンチを連打するアマンが、どこか微笑ましかった。
国の細かい文化差と、彼の個性との境界は、そのころには徐々に溶けていたように思う。
ある夜、母親が資源ごみをまとめていたとき。ビニール紐がゆるんで、新聞紙が崩れた。ぼくも手伝おうとしたが、うまく締まらない。
すると見ていたアマンが、「できます」と静かに来た。
新聞紙に、軽く触れる。そういえば、最初に来た日も、畳を触っていた。珍しいから触っているか、あるいはただの癖だと思っていた。けれどもしかしたら、彼はなにかを確かめていたのかもしれない。
しばらくして、紐をきれいにかけて要所でぎゅっと力強く引き、鮮やかに縛ってみせた。
彼の縛った新聞紙は、がちがちに固く締められていて、振っても動かなかった。適当に、結びさえすればいいだろうというやり方では、絶対にできない仕上がり。
正直、ちょっと尊敬した。ボーイスカウトは、ロープだけでなくビニール紐を扱うのもうまくなれるらしい。
* * *
アマンが来てから、一週間。最終日近くのことだった。
その日、彼はお土産に木製の升を購入し持ち帰ってきた。
「それ、酒のやつじゃん。」
袋から取り出すのを見て、驚いて言った。升は、ぼくでも知っている。使ったことはなかったけれど、正月とかに目にすることがあったから。
しかし彼は、まっすぐな目で言った。
「ペンを入れる。きれい。木も、日本っぽい。」
少し混乱する。間違ってるはずなのに、妙に納得感がある。木の升からは、木のいい香りが漂っていた。アマンは渡す前に、その角を親指で何度か撫でた。まるで、木目を読んでいるみたいに。
「はい。」
ひとつ、手渡してくれる。彼は自分の分だけでなく、うちの家族全員分の升を買ってきていた。世話になったお礼にということなのだろう。
兄は、好意を純粋に受け取ったのだろう。サンキューと軽く言った。そして升について、「もともと量るための道具なんだよ」というようなことを、彼に教えてあげていた。
母は、アマンが宗教的にも年齢的にもお酒は飲めないことがわかっているので、ぼくと同じように困惑していた。
それで父はというと、どこかから日本酒を持ち出して「せっかくだから」と升で飲むことにしたらしい。最近お酒を控えていたはずだったけど、いい機会だと思ったのかもしれない。
父が、小さい透明なコップを升に入れた。そこにお酒を注ぐ。
「もっきり」という飲み方だと父は得意げに言う。こういう、役に立たない知識を披露するのが好きな人なのだ。ぼくも、物知りの兄も知らなかった。もちろん、アマンも。
なみなみとした酒はコップからあふれて、升へ落ちていく。
「止めない?」
アマンは真顔になっていた。父は、「多いほうが縁起いいんだ」と笑うと、つられて彼も笑った。
「日本人、もったいないって言うのに。」
ぼくも、そう思った。
* * *
帰国の日。彼は、升を大事に鞄へしまった。荷物はそんなに大きくない。
「ほんとにペン立てにするんだ?」
「勉強したもの、入れる。」
通訳の大学生スカウトの人と一緒に、彼はうちをあとにした。
もう、畳の部屋に布団はない。帰ったあと、父と一緒に畳の部屋を片付けた。とはいえ、ほとんど汚れていない。代わりに、しばらくその部屋には、知らない国の匂いだけが残っていた。
二階の部屋のぼくの机にも、貰った升がひとつ置いてある。僕の部屋は北に窓があって、机は西を向いている。いま向いているのは、彼が気にしていた方角だった。
その升を、大人になってお酒を飲むときに使うのか、それ以外の用途で使うのかは決めていない。
木の匂いを嗅ぐと、少しだけあの部屋の匂いが混じっている気がした。
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