完璧な青【創作】
プールの水は、朝の光を受けて完璧な青をしていた。風景写真を切りだしたみたいに、非の打ちどころがない色だった。
私は二階の寝室の窓から、それを見下ろしていた。水面は静かで、風もない。誰にも触れられていないからこそ、こんなにも綺麗なのだろう。
昔から憧れがあった。
子どものころからの夢。二階建てで、庭付きプール付きの家。ここまで大きなものは想定していなかったけど。
まだ叶えられていないのは、可愛い子どもと、小型犬。
夫の彰との夫婦仲は、悪くはない。けれど、夢の続きを追うには少し、酸素が足りない気がしていた。
「今日も暑くなるってさ。」
背後で、彰がネクタイを結びながら言った。独り言のような声だった。
「そうね。」
そう返しながら、私は視線をプールから外せなかった。この家にはじめて来た日、真っ先に惹かれたのが、このプールだった。
白いタイルに広いプールサイド。夜になればささやかにライトアップされる水辺。「ちゃんとした大人」になった証みたいで、少し誇らしかった。
──でも、泳いだことは一度もない。
「今週末、また集まるんだよな。」
彰が言う。「誰が」とは言わない。言わなくても分かる。
「……そうだったわね。」
ワイングラスを片手に、プールサイドで談笑する人たちの顔が浮かぶ。近所の、同じような家に住む人たち。
同じような車に乗り、同じような学校の話をし、同じようにこちらの家を値踏みする……そんな人たち。
主催は、いつも私たちだった。
「まどか、ケータリングどうする? 前と同じとこでいい?」
聞きながら、もう決まっているようなニュアンスを含んだ言い方。私は、少し間を置いてから答えた。
「……また、うちなの?」
「だって、一番場所いいだろ。プールもあるし。」
その言葉に、胸の奥がきゅっと縮む。あるという理由だけで、使われる場所と、断れない役回り。
「……清掃代、結構かかってるのよ。」
言ってから、しまったと思った。彰は、悪気のない顔で私を見る。
「まあ、仕方ないだろ。見た目は大事だ。」
見た目。その言葉が冷たく、波紋のように広がる。
彰は社長だ。正確には、「社長になった」。今は会長である父の影響力の下で、名前だけのトップに座っている。
それでも、外から見れば「成功した二代目」。この家も、この立地も。その延長線上にあるものだ。文句を言う資格はない。
お金があれば、人は自由だと思っていたけれど。私たちには、お金で縛られた自由しかなかった。
「それにさ。」
彰が、少し声を落とした。
「全部水抜いて入れ替えるの、やめてもいいんじゃないか?」
私は振り返った。
「どういうこと?」
「業者に聞いたんだよ。消毒剤で一気に綺麗にできるって。見た目は問題ないし、短期間なら十分だってさ。」
──見た目は。
その言葉が、また出てきた。
「泳げなくなるんじゃない?」
「別に、誰も泳いでないだろ。」
即答だった。たしかに、泳がない。誰も最初から。プールははじめから、ステータスだ。「そういう場所」じゃなかった。
私はもう一度、窓の外を見る。青く澄んで、完璧な水。思えば私は、そこに顔を映したことすらなかったかもしれない。どうして私は、プールが欲しかったんだろう。
「……あなたが、それでいいなら。」
そう言った自分の声が、少し遠く聞こえた。
* * *
週末のパーティは、つつがなく終わった。
グラスを回収し、簡単に床を拭き、業者に回収させるごみをまとめる。普段使わない備品は、倉庫に押し込んだ。ひと通り片付けを終えたころには、肩に乗っていたものがすとんと落ちたような気がした。
終わった感覚が、ようやく遅れて届く。もっとも、どうせまた次がある。ここはそういう家だから。
上流階級のパーティなんて、と最初は胸が躍ったけど。実情は、序列が上の金持ちをよいしょするだけのイベントだ。安い居酒屋で、お酌して回るのと大して変わらない。
いつも、プールはそばにあった。けれど、見た目だけが綺麗に整えられることに決まってから、私はそこから目をそらすようになっていた。
問題が起きたのは、その夜だった。
夜半、近所の小金持ち仲間の子どもたちが、うちに忍び込んだらしい。フェンスを越え、裏手から入り、勝手にプールで泳いだ。
うちは警備会社と契約していなかった。誰にも気づかれずに入り、誰にも気づかれずに出ていったのだろう。朝まで、何も知らなかった。
異変が分かったのは翌日だ。
昼過ぎ、見覚えのある車が家の前に停まり、母親たちが連れ立って玄関に立った。
「お宅のプールで泳いだ子どもの体調がおかしくなった。どうしてくれるの!?」
強い口調でまくしたてられる。話を聞けば、強い塩素のせいで全身が赤くなり、病院にかかったという。
勝手に侵入し、許可もなくプールに入ったのだから、悪いのは向こうだ。理屈は明白だった。けれど、忍び込んだ子どもたちの中に、地域で顔の利く母親の息子が含まれていた。
だから、話は理屈通りには進まなかった。
責められては宥め、怒られては頭を下げ、言葉を選び続ける。赤くなったり、青くなったりしながら、その場をやり過ごした。
思い返してみても、あの頃の記憶はひどく曖昧だ。何をどう決着させたのか、細部はほとんど残っていない。
……ただひとつ。流れが終わった、という感覚だけがある。
* * *
あのプールの一件をきっかけに、私たちは家を出た。近所づきあいは一気に冷めきり、この件が彰の父の耳にまで入ったのが決定打だった。
夫も私も、かつての生活を捨てざるをえなくなった。
あれから、何年経っただろう。
彰は子会社を立ち上げ、小さいながらも自分の裁量で仕事ができるようになった。ネクタイもしなくなり、忙しいと言いながらも楽しそうだった。会長である父の管理下から、ようやく距離を取れたらしい。
私は今、小さな庭で、ビニールプールを広げている。数年前にようやく授かった子どもと、小型犬と、一緒に水遊びする準備をしているところだ。
かつての、背伸びをした生活では、子どもを育てる未来をうまく思い描けなかった。今は違う。無理のない範囲で、息苦しくない日々がある。
息子が、ばしゃばしゃと水をまわりに飛ばすと、きらきらした飛沫が、あたりに跳ねた。私もそっと手を入れてみると、ひんやりとした水の感覚がある。
ビニールプールの水は、息子と犬の身体についた泥で少し濁っている。
決して完璧な青ではない。けれど、その色が、どうしようもなく愛おしかった。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。