金魚の模様【創作】
居間の金魚鉢では、二匹の金魚が静かに泳いでいる。赤い体をゆっくり揺らし、ときどき尾びれだけを細かく震わせる。
少し前の地元のお祭りで、金魚すくいをやったと、息子がはしゃいでいたのを思い出す。
その金魚たちは、少なくとも俺には、困った顔をしていないように見えていた。
空気に満ちた世界を泳ぐ人間の方がよほど、息苦しくなるときが多い気がする。
* * *
五月二十七日は、我々にとってはなんの変哲もない平日だった。
「家族にとって宗教上大切な日なので欠席したい」
そう申し出があったのは、イスラム圏の国籍の親を持つ、女子生徒からだった。イード・アル=アドハーは、イスラム教でも特に重要な祝日のひとつらしい。
職員会議で、話題にのぼった。
「どちらの国の方でしたっけ。」
「バングラディッシュか、インドじゃなかったですかね。」
「ご家庭へは、欠席を許可しました。しかし休んでよいとこちらが言ったところで……制度上、出席日数は減ることになります。」
誰かのため息が聞こえた。「不利益がある」と保護者がとらえることへの懸念を、先読みしてのものだったかもしれない。
「この祝日って、来年はまた別の日なんですよね……。」
「そうらしいですよ。月の暦ですから。」
「毎年違う対応は、難しいかもしれませんねえ。」
先生のうちの誰かが、椅子に背を預ける音がした。その瞬間、会議室が静かになった。
以前も、別の話題で揉めたことがある。今回と同じ生徒の対応で、だった。
「あのときも、問題になりましたね。」
「ああ、給食対応ですよね。」
思い出した。その生徒は、豚肉はだめで、他の肉もハラールでないとだめ。ゼラチンや料理酒も禁止とあって、栄養士も頭を抱えたという。
結局、提供されるパンやフルーツは食べるようにさせ、足りない分は家から弁当で持参させるということになった。
とはいえ、食べられないものが出ても、給食費は全額負担となる。このときは他のアレルギー持ちの生徒が前例としてあったおかげで、大きな問題にはならず、ご両親にも納得いただいていた。
「ちょっと可哀想でしたかね。」
「かといって、どうすればよかったんですかね。」
誰かがそう言った。俺は今回の生徒の顔を思い出そうとした。だが、うまく浮かばなかった。
その日の会議で、結局答えは出なかった。
* * *
帰宅して、居間の扉を開けた。
金魚は相変わらず、平気な顔で泳いでいる。水の中には空気がない、それなのに。
「こいつら、ずっと元気だなあ。」
俺はぽそりと、つぶやいた。帰宅した俺に気づいた妻の耳に、その言葉が届いていたようだ。
「話してなかったっけ。」
少し困惑したように、彼女が言う。
「……その子たちね、お祭りですくってきた、あのときの金魚じゃないわよ。」
えっ、とそちらを向く。俺は、祭りで息子と妻がすくってきた二匹の金魚をずっと飼っているものだと認識していた。カバンを置き、続きを促す。
「あのときの二匹はね、次の日に死んじゃったの。それで……あの子が泣くもんだから、代わりのを買ってきたの。」
それを聞いて、もう一度金魚鉢の中を見る。姿かたちが違うかどうかを確かめようとしたのだと思う。だが、考えてみれば。その二匹がどんな模様だったのかさえ、俺は説明できなかった。
妻の言葉が、遠くで聞こえていた。
金魚は、水質や環境の変化に弱いこと。お祭りの金魚すくいで泳いでいるものは、もともと体力不足で弱りがちであること。そんなようなことを、説明していた。
「そりゃ……聞いてなかったな。」
「ごめん。でもあなた、出張もあったし忙しそうだったから……。」
鉢にもう一度、視線を落とす。歪んで映る自分の顔を、金魚が横切った。
今日の職員会議では、制度や規定、費用の話が中心だった。イスラム教にとって、どういった祝日なのか。その子が、どんな気持ちでその日を迎えるのか。そういった話は、出なかった。
金魚は鉢のかたちに合わせて、変わらず、ただ泳いでいた。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。