あのときと同じ部屋で【創作】
電話越しの声は、三年前と変わらないようだった。
旅館の女将がやさしく応対してくれる。
「お部屋、空いておりますよ。あのときと同じ部屋で。」
「それでお願いします。……はい、ふたり部屋で。」
電話口の自分の声が、少し震えていた。
三年前、彼と泊まった旅館。
温泉の湯けむりも、窓の外の川音も。まだ耳の奥に残っている。
当日はひとりで行くと伝えたとき、宿の人は少し不思議そうだったが、予約を受けてくれた。
チェックインして、部屋に通される。
畳の香り、障子越しの光、備え付けの急須。どれも変わらない。
この三年の間、私は過去の旅の追憶に、何度も写真を見返していた。
今はまるで、あの夜の続きに迷い込んだかのようだった。
「また来よう。」
そう言ってくれたのは、彼のほうだった。
誠実で、約束は必ず守る人だった。
嘘をつくのが、苦手な人だった。
「あそこに行ってみたいね。」
「あれが気になってるんだ。」
私が何気なく口にした小さなことまで、律儀に覚えていて、誕生日や記念日に、本当に実行してしまうような人だった。
──でも、自身の体調が悪かったり、不安なことがあったりしても、それは周囲には上手に隠し通せる人だった。
夕食を終えて、ひとりで露天風呂に向かう。
夜風が冷たく、都会では隠れている星がよく見えた。
誰もいないはずなのに、湯船に落ちる水音が聞こえる。
そっと隣を見ても、湯けむりが揺れているだけだ。
不思議と、怖くはなかった。
部屋に戻ると、テーブルの上に湯呑みがふたつ並んでいた。
最初からふたつあったかどうかは覚えていない。
以前来た時も、食後のお茶のサービスがあったことを思い出す。
今日の食事自体はもちろん、ひとり分での提供だった。
ふたつあるうちの片方の湯呑みからは、ほんの少し遅れて湯気が立ちのぼっている。隣に置かれた懐中時計の秒針が、それにあわせるようにこちこちと動いていた。
「……約束通り、一緒に来れたね。」
部屋でひとり、声を出してみる。
しんとした部屋に、いやに大きく響いた気がした。
私は遅刻が多かったよね。
あなたより、ちゃんとできていないことも多かったよね。
──でも、守れたよ。あなたとの約束。
障子の外で、ちりんと風鈴が鳴る。
その音を聞いたとき、ふと彼が笑う顔が浮かぶ。
湯上がりの顔をうちわであおぎながら。
窓の外を眺めて「高かったけど、やっぱりいい宿だなあ」と言っていた。
その言葉の通りだ。
高くても、来てよかった。
明日の朝には、もう帰る。
もう一度、同じ部屋に泊まることはないかもしれない。
それでも——この夜だけはきっと、あなたと過ごせた気がする。
障子の向こう、遠くで虫の声がした。あの夏の夜と、同じ音。
私は、彼との思い出の気配をやさしく感じていた。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。