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ほんの、数十センチ【創作】

山道は、思っていたよりも整備されていた。駅から結構な時間を歩いたところで、ようやく木の匂いが濃くなった。さわさわと、葉と葉の触れる心地良い音が流れている。観光案内に載るほどの山ではない。だから、選んだ。

人生が無為に感じられる、というのは、言い訳だと思う。

特別な不幸があったわけでもない。単位は足りている。友人もいた。家族とも、まあ普通だ。

それなのに。

何もしていない、足踏みをしている感覚。何も起きていないのに、もう終わっている感じがしていた。

気付けばふと、ここまでやってきていた。リュックには、必要最低限のものしか入っていない。

夕方の空は、低いところから色を変え始めていた。今なら、誰にも会わない。

そのはずだった。

* * *

山道のゆるやかなカーブを曲がった少し先に、彼女はいた。

薄い赤のシルエット。それが、夕焼けと重なる。

脇の切り株に腰掛けて、スマホをいじっている。しかし彼女は、パジャマ姿だった。寝巻きにしては薄く、外出着にしては気が抜けている。ぎりぎり、近所のコンビニに行くくらいなら許されるかな、くらいのいで立ち。スリッパではなく、ちゃんと靴を履いているのがまた、余計に現実味をなくしていた。

近づいていく中で、二度見、三度見しながら、声をかけるべきか迷っていると、彼女のほうが先に顔を上げた。

「来ると思った。」

それだけ言って、立ち上がる。背は、僕と同じくらいだ。

「えっと……どちらさま?」

返事を待たずに、彼女は続けた。

「あなたに、見せてあげたいものがある。」

彼女はそう言って、指を鳴らす仕草をした。親指と中指が擦れる。でも、パチッという音は一切しなかった。

それなのに、地面がふっと遠ざかった。

足元の感覚がなくなり、靴の裏が土から離れている。ほんの数十センチ。風が、少しだけ軽くなる。浮遊感はあるが、意外と安定している。

そうして、視線が上がったことで。木々の向こうに、きれいな夕焼けが見えた。さっきまでは、見えなかった。

「ほらね。」

彼女は、少し得意げだった。一緒になって、隣の彼女もほんの少しだけ、浮いていた。

「すごい……」
「でしょ。」

夕焼けと、足元を、交互に見たあと。

どういう仕掛けなんだろう、と思って、次に彼女を見た。彼女は、少し口角をあげたまま。少しだけ悲しい視線を向けて、言葉を発した。

「あなた、死にに来たでしょ?」

胸の奥で、何かが静かに音をたてた。怒りも、否定も。何も出てこなかった。

「私たちはね、『生きづらさ』を感じる人を助けてる。」

それだけの説明だった。今の魔法も、組織の名前も、人数も。やり方も言わない。彼女のパジャマの、足元のひらひらの部分が、優しく風に揺れていた。

「でも、助けるって、どうやって。」
「人それぞれかな。今日は、これくらい。」

肩をすくめながら、そう言った。そしてもう一度、彼女は指を鳴らす仕草をする。やっぱり、音はしなかった。次の瞬間、魔法は消えて、僕らは元の高さに戻った。ずしりと身体に負荷がかかる。

僕は、彼女の真似をして、目の前で指を鳴らしてみせた。パチッ、と、乾いた音がした。中学のころ、友人と練習して意味なく鳴らしたのを思い出す。

彼女は一瞬、驚いた顔をしてから、笑った。

「きみ、才能あるかもね。」

今はもう見えない夕焼けの光の向こうに、その笑顔は溶けて行った。

* * *

そこで、目が覚めた。

自宅のベッドだった。カーテンの隙間から、朝の光が入っている。夢だったのか、と思いかけて、玄関に目をやる。

靴は泥だらけだった。

リュックを開けると、ロープがない。使おうと思っていたそれだけが、きれいに消えている。

スマホが震えた。メッセージアプリの通知。そこにあるのは、見覚えのない名前。でも、頭の中で声が流れた気がした。

『あなたも、お気に入りのパジャマ、用意しといてね』

理由は書いていない。

僕は少し考えてから、カーテンを開けた。朝は、思っていたより明るかった。

死にそこねたけど、まあいいか。ふと、そう思った。

あのとき浮いたのは、ほんの、数十センチ。あのとき、どちらに傾くかは、
たぶん風向きみたいなものだった。

僕は、宙に浮いたときの足の裏の感覚を、思い出していた。


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財布野紐ゆるみ 書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。