祖父の書斎【風まかせ文芸部 / 本屋】
祖父の書斎には、本があふれていた。ドアを開けると、少し乾いた匂いがする。紙と、古い木と、ほこりの混ざったような、そんな匂い。
窓はあるけれど、厚い遮光カーテンが閉められていて、いつも薄暗い。カーテンの隙間から差し込んだ細い光の中に、ほこりがゆっくり泳いでいるのが見えた。
壁一面の本棚。机の上にも積み上げられた本。足元にすら、たった今読み終えたばかりかのように、無造作に重ねられた本の塔がそびえている。手元の本に少し触れると、ざらりとした触感がした。
見渡す限り、本、本、本。そんな部屋だった。
* * *
祖父が亡くなったことで、これらの本の処分をどうするか、という話になった。両親が書斎の下見をするというので、面白そうなので僕もついてきていた。
両親は、古本屋やフリマサイトなどで売ってしまうのがよいのではないかと言っていた。なにせ、量が量だ。このままにしておくわけにもいかない。
僕は過去にも何度か入ったことがあるが、あらためて見てその物量に圧倒されていた。親は、腕を組んだり頭を抱えたりしていたと思うけれど、僕はというと、この部屋の空気にあてられたのか、不思議と浮き足立っていた。
棚の前に立って、なんとなく言った。
「読みたいのがあったら、もらっていい?」
母は、少し考えてから言った。
「いいよ。自由にしていい。読んでもいいし、人にあげてもいい。」
それから、少しだけ声を強めて釘をさされた。
「あ、でも勝手に売ってお金にしちゃだめだよ。おじいちゃんの本なんだからね。」
当然といえば当然か。でも、許可なく売るのはだめというだけで、読むのも、誰かにあげるのも自由。
つまり──この本棚は、全部、僕の好きにしていい。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ高鳴った。
書斎には、ジャンルを問わず多数の本が並んでいた。歴史の本に古い小説、海外文学から難しそうな哲学書まで。分厚い全集なんかもあれば、色あせた文庫本もあった。
祖父がどんな順番で、どんな気持ちでこれを読んでいたのかはもうわからない。けれど、祖父の時間がここに詰まっている気がした。
* * *
ある日、仲のいい友人に、この書斎を見せた。
「へえ~……すご。」
友人はそう言いながらきょろきょろと本棚を見回した。けれど、反応はそこまで大きくない。彼はあまり本を読む方ではないのだ。残念ながらここには彼が好むような、漫画やライトノベルなどはなかった。
「読みやすいのがあれば、読んでみたいとは思うけどな。」
そう言って本棚を眺める彼の視線の先に、僕の知ってるタイトルがあった。
ジュール・ヴェルヌの「十五少年漂流記」。僕が小学校の頃に読書感想文を書いた本。これは、冒険小説だ。子どもたちだけで無人島に流れ着き、知恵を出し合って生き延びていく物語。
「これなら、読みやすいよ。持ってく?」
「どんなの?」
「子どもたちだけで、島で生活するって話。」
「じゃあ、借りてみよっかな。」
そう言って、その一冊を貸した。
それから何日が経った放課後。駅までの帰り道で、彼が言った。
「最初さ、子供っぽいかなって思ったんだけど。」
僕は少しだけ身構えた。
「でも、途中でルール決める場面あるじゃん。あそこ、なんかよかった。」
「ああ、あったかも。」
「最後まで読んだら、普通に面白かったよ。」
簡単な感想だった。でも、ちゃんと読んでくれたことがわかる言葉で、僕はそれがうれしかった。
僕はあの本で、「仲間がロープを解いたために漂流することになった」と判明した場面が、強く印象に残っていた。たったひとつの行動で、物語は動き出す。周りを取り巻く、世界が変わる。
でも彼の印象に残ったのは「仲間たちがルールを決める場面」だという。
──本の意味って、読む人によって変わるんだな。
そんなことを思っていた。
──でも……。
そうなると、気になってくる。
じいちゃんは、これを読んでどう思ったんだろう。どうしてこの本を、手放さずにずっと持っていたんだろう。祖父の顔が、頭に浮かんだ。
答えは、もう聞けない。
「それで、すぐ返そうかと思ったんだけどさ。弟が面白いって言ってまだ読んでるみたいなんだよな。」
彼は少し、申し訳なさそうに笑った。
「もうちょっとだけ、貸しててくんない?」
僕は、少し考えた。
「……あげるよ。」
「え?」
「その本。よかったら。」
彼は驚いた顔をした。
「でも……いいの?」
「うん。」
そして僕は言った。
「ただ、条件がある。」
* * *
祖父の書斎の使い方が決まった。この書斎は、本屋になる。
金銭のやりとりはしないので、レジはない。本は無料で、ひとり一冊だけ持っていくことができる。
でも、大事なおじいちゃんの本だから。この本屋は、信用できる人だけに使ってもらいたい。利用できるのは、僕のクラスメートか、その友達まで。例の友人と、ふたりで考えてルールを決めて、親にもその話をした。
小さな、本当に小さな本屋だ。
ある日、初めてのお客さんが来た。友達の友達だった。彼は本棚を眺めて、やがて一冊を手に取った。元から気になっていた作家がいたらしく、選ぶのに時間はかからなかった。
「これ、ほしいんだけど。いいかな?」
僕は机の引き出しから、四百字詰め原稿用紙を一枚取り出して渡した。
「読んだあと、これに感想を書いてきて。それがルールなんだ。」
「感想?」
「うん。簡単でいい。宿題じゃないから、びっしり書かなくてもいい。」
「なるほど。」
彼は少し笑った。
「じゃあ、読み終わったら書くわ。」
友達にあの一冊を手渡した、あのときから。きっと、物語は始まっていた。祖父の書斎に並んでいた本たちは、誰かの手に渡って、また別の物語になる。
誰かの感想が残る。誰かの心に残る。
そしてまた、もしかすると、次の誰かへ。
書斎の机の中には、すでに一枚の原稿用紙。友達が書いてくれた、「十五少年漂流記」の感想文だ。
それを取り出して眺める。紙には、少しだけ消しゴムの跡が残っていた。
物語が動き出す瞬間というのは、きっとこんなふうに始まるのだ。たったひとつの行動から。
「ロープが解かれた瞬間」に、僕はわくわくしていた。
※以下の企画に参加させていただきました。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。