少しわかる【創作】
彼は、口数が少なかった。
その日の私はなにも聞かされておらず、服も靴も、特に指定はないままだった。
さすがに山道を歩いたり、ドレスコードが必要な店の予約をしていたりはないだろうけど。
鏡の前で、何度か服を替えた。けれど結局、最後には無難なものに落ち着く。
どういう人か、まだつかめていないから。
* * *
一緒にいるようになったのは、職場で私が困っていたときに助けてくれたのがきっかけだった。
そこから私が話しかけるようになって、あの人は聞いてくれるようになった。
知っていることは少ない。
ひとり旅が好きだと言っていた。まだ、話せるようになって間もないのに、旅行の話なんてするから、そんな、あの、それはまだ早いと思った。
でも、勘違いだった。
相手は、あくまで自分の話をしていただけ。誘われたわけではなかった。
でも、次の休みに、どこかに行こうという話にはなった。
季節の催事やイベント、出かける先がなかったわけではない。ただ、仕事以外で待ち合わせして、いつもと違う場所で話すのが目的のようなものだった。
「じゃあどこに行くか、当日までに考えておいて。」
私のその一言は、何の気なしに出た。職場では、ちょっとした冗談も言えるようになっていた。
彼は、なんだそれと笑ってから、わかったと返事をくれた。笑うと、かわいいところがあった。こうして私が適当に言葉を投げても、彼は彼なりに捕まえてくれた。
* * *
そして。今に至る。
出かける先がわからないまま、私は彼の隣を歩いていた。
気づけば車道側にいた。一歩だけ前に出て、歩道側と入れ替わる。これで、彼が気をつかってくれたみたいに見える。
彼は鈍かったけれど、余計なことを話さなそうだから、信頼できた。相手が自分のことを「好きすぎない」感じも、居心地がよかった。
例えば私が髪を切ったとしても、たぶん彼はちらっと見るだけだろう。でも、そのくらいのほうが、私は身構えなくてすむ。
ところで、どこに行くんだろう。
パチンコ屋さんがある。
そこの通りに入ると、歓楽街に続いているんじゃなかったか。
まっすぐ向かうようで、ほっとする。
ラーメン屋さんを過ぎて、商店街の方に進んだ。お腹は空いていないけど、なにか食べるのかな。
たい焼き屋さん。マッサージ屋さん。
ビルとビルのスキマで、彼の足が止まった。
目的地はここだという。
灰色の壁の中で、それらしい施設を探す。そんな中に、小さくてかわいいイラストの看板を見つけた。この建物の三階。
猫カフェだった。
* * *
飲み物をひとつ注文すると、決められた時間までゆっくりできる。
ホットココアがおすすめ。彼は、それだけ言った。
以前から興味はあったが、はじめて入った。猫に触れて癒されるため、人はこういう場所に来るのだろう。
靴を脱いで、カーペットでくつろげるらしい。猫はこの部屋にいるだけではなく、奥からも声が聞こえてきていた。
おもちゃの貸し出しや、追加料金でおやつをあげられるサービスもあった。
猫は飼ったことがない。母がアレルギーだったからだ。
「猫、飼ったことあるの。」
「昔実家に二匹いたよ。」
どんな猫か、なぜ二匹なのか、今はいないのか。このときはその続きの話は聞けなかった。でも、私の中での彼の情報が少しだけ増えた。
彼は、猫にまみれたこの部屋では、少しだけいつもより話をした。
ひも状のおもちゃは前でいきなり振るよりも、陰の方からちらっと見せて興味をひくのがコツなんだよ、とか。
このお店では、子猫にはおやつを与えてはいけない決まりなんだって、とか。
オスかメスかを見分けるコツも話していた。
私には、ちょっと難しい。どれもかわいいことしか、わからない。
だけど、どうして今日ここに来たんだろう。
私は、それだけ彼に尋ねた。
「前に、行ったことがなくて興味あるって言ってたから。」
そう言って、笑った。
手の中のココアのカップが、少し熱かった。
「……覚えてたんだ。」
そう言ったあとの返事はなかった。私も、それ以上は何も言わない。
気づけば、膝の上で丸くなった猫の重さだけに意識が向いていた。他のお客さんもいる中で、うとうとしかけていたころ、時間終了となった。
彼は背中で、店員さんとスタンプカードについて話している。
私はカーペットから下りようとして、自分の靴を見る。この靴で出かけるのは、今日で三度目。無難なスニーカーだった。
連れていかれる場所がわからないのは、少し怖い。
でも、この人なら。
次はどんな靴で行けばいいか、その心配だけしていればいい気がした。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。