押し入れと影絵【創作】
今でもふと、思い出す。幼稚園のときの、火事のこと。
あの日は冬。きっとアパートの部屋は、暖房で少し乾燥していたはずだ。
サイレンの音。冷たい風。ちょっとした拍子に、過去の体験に回想するスイッチが入り、身体が少し強張る。梨々花にはそんな癖がついていた。心臓をつままれたような感覚に、背筋が冷える。
「大丈夫か?」
兄の清隆が、隣で優しく声をかける。
「ありがとう。大丈夫。」
少しして、落ち着いてから梨々花は答えた。自分の意志とは関係なく、肩が震えていた。
清隆には、火事の日の記憶がほとんどないという。反対に、梨々花は中学生にあがった今でも、現実世界が、しばしばあの日の記憶に飲み込まれることがあった。
ぱちぱちと小さな音を立てて燃えていく、居間の本棚やカーテン。冬の冷たい空気に混ざって鼻を突く、こげた煙の匂い。あの日の夜の光景は、梨々花の胸の奥に、まだ鮮やかに残っている。
その夜は、母が夜勤で家におらず、清隆が幼い妹を任されていた。
梨々花は小さな体を押し入れの奥に隠し、息を潜めながら、でもどこかで清隆の声を探していた。
「こわくないぞ、ここにいるから!」
清隆の声は、押し入れの外から聞こえた。梨々花はぎゅっと目をつぶる。彼女の目には、まだ炎が燃え広がる家の中の景色は映っていない。
しかし、音と匂い、そして光と熱気によって……視覚以外の感覚で、嫌でも圧倒的な存在として「炎」を感じていた。オレンジ色の光がまぶたの裏から差し込み、闇の中で恐怖が押し寄せてくる。
梨々花が目をおそるおそる開けると、清隆の両手の影が、壁や天井に動物のかたちを作っていた。
最初はうさぎ、次は鳥、その次は犬……。
梨々花は、寝るときに電気を消す前、これを見せられると喜んだ。兄が唯一、彼女を楽しませるために知っているすべが「影絵」だった。
しばらくは梨々花の心の中で、恐怖と安心がゆらゆらと揺れていた。しかし、次第に恐怖を忘れていった。壁を滑り、楽しげに踊る影。
──なんて、素敵なんだろう。
火の粉がぱちっと床を弾く音も、燃える匂いも、押し入れの中では遠い出来事のようだった。清隆の影絵に夢中になった梨々花には、時間が止まったように安心感がよりそっていた。
「あと少し、あと少しで、助けが来るから……!」
そう言っている兄の声も、同じようにどこか遠くから聞こえている。
そうして──いつの間にか、梨々花は現実に舞い戻った。しばらく病院通いをしたと思ったら、平穏な生活がゆっくりと追いかけてやってきた。まるで、何事もなかったかのように。
少し遅れて、梨々花を必死で励ました清隆も、元の生活に戻る。アパートの部屋は半焼、ご近所にも迷惑はかけたが、誰も命を落とすことはなかった。
火事のあとしばらくは、市の用意した仮住まいで暮らしたらしいが、その記憶はほとんどない。
──そしてこれは、後になって聞いた話。
あのとき清隆の片手は、倒れてきた重い本棚の下敷きになっていたという。
救出された直後の彼の腕は、炭の匂いが染みつくほど黒くすすけ、まともに動かせる状態ではなかった。もちろん、低学年の小学生が本棚をどかせる力もない。
なのに、両手で影絵を作る動作だけは、梨々花にははっきりと見えていた。
火はいつの間にか消え、あの夜は終わった。ふたりは無事だったけれど、梨々花はその時の光景を、どうしても現実だと信じられなかった。清隆の片手の握力が、あの夜から弱くなってしまったことを知ったのは、それよりもずっとずっと後のことだ。
肩の震えもおさまり、周りの世界が現代の景色を取り戻した。
「お兄ちゃん。」
自分の目を見据えて言う梨々花の表情を、清隆は心配そうに見守る。
「どうした? まだ、怖いのか。」
「……また、影絵やって。」
あきれたような顔になり、清隆はよそを向いてしまった。
「いくつになったんだ、馬鹿。」
梨々花の胸のざわめきが、そっと鎮まっていく。
ふと、不思議に思う。あの夜、あの押し入れで見た影絵は、本当に清隆が作ったものだったのか、それとも炎が生み出した幻想だったのか──。
あのオレンジの光と、揺れる影だけが、ずっと胸に残っている。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。