きれいなままの、鏡餅【年始は片想い文芸部から】
問題を解かせている間、軽くあたりを見回した。生徒の部屋には、少しだけ正月の名残がある。
机の端に、小さなコンビニの鏡餅が置かれていた。プラスチックの橙が、やけにきれいだ。親が買ってきたのだろうか。本人は、そこまで気にしていない顔をしている。
その隣には、貯金箱があった。陶器でできた、丸型ポストの貯金箱。
ずしりと重そうで、いかにも「割るしかない」形をしている。触ってもいいかと聞いてから、私は貯金箱を持ち上げ、裏を確かめた。そこには、指で引けば外せそうな蓋がある。
「これ、開くんだね。」
私が言うと、彼は少し驚いた顔をした。
「え、そうすか。知らなかった。財布の小銭をたまに入れてるっす。」
じゃら、と硬貨の触れ合う音を聞きながら、ふと思う。
──もし、あのときの貯金箱にも、これがあったら。
ミルクティー一本のために、幼い私はそれを割った。祖母にもらった、陶器の豚の貯金箱。入っていたのは、細かい小銭、数枚だけ。もっとたくさん、貯められていると思っていた。
今も後悔した記憶だけが、粉々にならずに残っている。あのとき、ベランダで響いた音と一緒に。
「先生、どうかしました?」
声に引き戻される。私は貯金箱を元の場所に戻し、「なんでもない」と首を振った。
彼は、高校受験を控えた男の子だ。数学が苦手。英語が得意。私より少し年下で、少しだけ不器用で。……そして、私にはさほど興味がない。それが、彼について知っていること。
私は目を合わさず、回答だけを見る。
高校生の男子が、年の近い女の家庭教師に興味を持つ可能性があることくらい、分かっている。だからこそ、それを利用することだけは、絶対にしたくなかった。成績の話をするときも、距離の取り方も、声の調子も、いつもより慎重になる。
去年、鏡開きの前にカビの生えてしまった鏡餅。そんなふうに、正しさを保てなくなった関係性なんて、耐えられないと思った。時間が経てば、必ず嫌悪に変わるもの。
彼の家では、親の話題がほとんど出なかった。
忙しいのか、触れてほしくないのか。母親は、バイト応募のときに話したとき以外、彼のことで時間をろくに作ってもらえなかった。
私はそこまで踏み込む気はなかったが、彼が数学の問題につまずくたびに、どうしても考えてしまう。机に向かう時間が足りないのか、それとも、考える余裕が削られているのか。
私が問題集から目を離したまま黙っていると、彼が言った。
「……先生、今、考えごとしてましたよね。」
当たっていた。成績のことじゃなかった。感情がもつれる。一瞬、彼の瞳から視線を移すのが遅れた。私は動揺を隠すように、問題集を指差して聞いた。
「次……ここ。出ると思う?」
彼は少し考えてから首を傾げた。
「たぶん、出ないっす。パス。」
そう言ってから、彼は一度だけ問題集を指でなぞった。解き方を忘れている指の動きではなかった。答え方が、妙に大人びていて、少しだけ胸が締めつけられる。地頭は良く、判断力もあった。たぶん、私なんかよりも。
きっと学校では、担任とウマが合わなかっただけ。身体を向けていなくても、心を向けられる素直さがある子だ。
短期のアルバイト期間は、あっという間に終わった。最後の日、彼は教科書を閉じて、照れくさそうに早口で言った。
「ありがとうございました。俺、先生より、いい大学行ってやりますから。」
軽口だった。同じ大学に行く、とは言わないし、仮に来れたとしても、その大学にはもう、私はいない。
「期待してるよ。」
そう答えて、私は鞄を持った。
外に出ると、思ったより空気が冷たかった。自転車を転がしながら、私は考える。
貯金箱は、割って後悔した。
鏡餅は、鏡開きが来れば、いずれ割れる。
でも、割らずにいる選択で、こんなにも息が苦しくなるとは、思っていなかった。白い息を吐きだす音が、やけに近くで聞こえる。冷たい風で目が滲んだ。
家に帰れば、あの小さな鏡餅も、きっと無事だ。
まだ、白くて、きれいなまま。
ふと、後ろを振り返りそうになる。
けれど私は、足を止めては、ひと呼吸おいてまた動き出す。
カラカラと、車輪の転がる音だけが、暗い路地に響いていた。
※以下の企画に参加させていただきました。
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